来年の五輪開催を願う気持ちはわかる。だが、現実に目を向けなければならない。冷静な判断をせず、着実な準備もしないまま、「来年には落ち着くだろう」という希望的な観測を持つべきではない。
本庶氏
過大な期待と理解不足
私は6月19日、がん治療薬「オプジーボ」の特許に関する対価を巡って、小野薬品工業に対し、約226億円の支払いを求める訴訟を起こしました。
昨年から訴訟の準備を進めていましたが、「なんとか交渉で決着をつけましょう」と間に入って下さる方もいたので、少し待っていたのです。ところが、小野の対応はまったく変わらず、一方で新型コロナウイルスの感染拡大もあり、今年に入ってから裁判所の動きもスローになっていたので、このタイミングでの提訴になりました。
私は、免疫を抑制するたんぱく質「PD-1」を発見し、その仕組みを解明し、さらにがん治療法を発見したことでノーベル生理学・医学賞を受賞したのですが、この特許を基にがん治療薬を実用化したのが小野薬品です。オプジーボの売上高は今や世界で年8000億円に上ります。
今回の訴訟については、後ほどお話ししますが、知的財産に詳しくなかった私は当初、信じられないほど低いライセンス料で小野薬品とPD-1阻害剤によるがん治療法特許の使用契約を結んでしまいました。以来、契約を改定する交渉を重ねてきましたが、小野は「支払う」と言った約束を反故にしたり、いったん提示した条件を後で値切ったり、極めて不誠実な対応を続けてきたのです。
小野への憤りだけではありません。私が訴訟にまで踏み切ったのは、このままでは日本の産学連携が崩壊し、生命科学者が知的搾取され続けるという危機感があるからです。
がん治療薬「オプジーボ」
日本は今、新型コロナとの長い闘いの渦中にあります。一時期より落ち着いてきたとはいえ、感染者数は増え続けている。わが国はこのウイルスとどう対峙していくつもりなのか。どんな闘い方をするにせよ、生命科学の力が欠かせません。
しかし、日本の政治家や行政を見る限り、生命科学や医学に対する過大な期待と理解不足があるような気がしてならないのです。
来年の五輪開催を願う気持ちはわかりますが、もっと現実に目を向けないといけない。冷静な判断をせず、着実な準備もしないまま、「来年には感染は落ち着くだろう」という希望的な観測を聞くにつけ、私は不安を感じざるを得ないのです。
変異と副作用が問題
コロナとの闘いを勝利に導くには、「予防」「治療」「診断」の3つの対策を立て直さなければなりません。
まず私が警鐘を鳴らしたいのは、予防に関して「ワクチン」への過度な期待は禁物だということです。安倍晋三首相は記者会見で、「東京五輪を完全な形で開催するならワクチンの開発がとても重要だ」と述べていましたが、それは非常にハードルが高いと言わざるを得ない。その理由から説明しましょう。
そもそも、新型コロナウイルスはインフルエンザウイルスやHIVウイルスと同じように、「DNA」ではなく、「RNA」を遺伝子に持つウイルスです。このRNAウイルスの場合、効果的なワクチンを作るのは難しいことが知られています。
ビル・ゲイツは、HIVワクチンなどの開発にこれまで何百憶円と注ぎ込みましたが、それでも、ほとんど成功していません。
なぜか。端的に言えば、二重らせんという安定的な構造を持つDNAに対し、一重らせんのRNAは、その構造が不安定で、遺伝子が変異しやすい。インフルエンザのワクチンを打っても効かないことが多いのは、流行している間に、ウイルスの遺伝子が変異していくからです。遺伝子が変異してしまうと、ワクチンが効きにくくなったり、まったく効かなくなったりするのです。
新型コロナも、変異のスピードが非常に速い。中国で発生して以来、世界各地に広がっていく過程で変異を繰り返し、5月末ですでに数百の変異があるという報告があります。
新型コロナウイルス
ワクチンが完成しても、開発当初とは異なる遺伝子のウイルスが蔓延しているかもしれない。そうなると、一部のウイルスにしか効かないことも十分にあり得ます。
もう一つ、ワクチンには「副作用」という大きな問題があります。ワクチン開発では良いところまで行きながら、臨床の段階で副作用が出て、100億円、1000億円ものお金がパーになったというケースは枚挙に暇がない。1976年に米国で新型インフルエンザの流行に備え、見切り発車で全国民へのワクチン接種を始めたものの、ギラン・バレー症候群などの副作用が出て投与中止になるという悲劇的な事件が起きたこともあります。
ただ、こうした副作用はワクチンには付き物なのです。実際、副作用の被害を受けられた方は大勢いる。だから反ワクチン運動なども起きてしまうわけです。ただ、私はそういった不利益を考慮しても、基本的には、一種の「社会防衛」としてワクチンの開発自体はやるべきだと思います。
ところが今の日本では、首を傾げざるを得ないようなことが行われている。日本で開発し、治験までやると言っているグループがありますが、あまりに現実離れした話でしょう。
ワクチンの有効性を評価するには、数千人健常な人を集め、打ったグループと打たなかったグループ、双方の感染率を比べなければいけません。しかし、この比較試験を感染が抑えられている今の日本でやるのは非常に難しいと思います。
今の日本で、仮にワクチンを打った3000人に感染者がゼロだったとしても、ワクチンを打たなかった3000人に何人の感染者が出たら有効と言えるのか。ブラジルのような感染者数が爆発的に増えている地域であれば、はっきりした差が出るかもしれない。しかし日本での比較試験はほぼ不可能と言っていいのです。
こうした開発の高いハードルを考えた時、東京五輪までの1年でワクチンを開発・製造するということが、いかに困難か想像がつくのではないでしょうか。期待を煽るような報道を見るにつけ、政治家や行政は、この現実を理解しているのだろうかと心配になるのです。
ワクチンより治療薬を
では、新型コロナの対策を諦めなければいけないのかと言われれば、そうではありません。私は、当面ワクチン開発よりも、「治療薬」のほうに期待すべきだと考えています。「既存薬」の中には、すでに効果が報告されているものもあり、治験を進めれば、新型コロナに有効な薬が見つかる可能性はあります。
例えば、国産薬として注目されている「アビガン」は、抗インフルエンザ薬としてすでに承認された薬で、どういう人に副作用があるかもわかっています。コロナに使う場合には、「適応外使用」にあたるので、保険が適用されませんが、それでも患者さんが希望すれば、医師の裁量で投与できる。こういった薬を使わない手はありません。
ただ、治療薬の保険適用には、ワクチン開発と同じく比較試験の壁が立ちはだかります。アビガンについても、大学病院で比較試験が進められていますが、症状の改善が見られる中で、投与しない対照群の充分なデータを蓄積できていません。安倍首相も当初「5月中にもアビガンを承認」と希望的観測を述べていたものの、遅れが出ているというのが現実でしょう。
安倍首相
治療薬の投与にあたっては、新型コロナに「潜伏期」「初期段階」「重症期」の3つのステージがあることを踏まえるべきです。ステージによって使うべき薬剤は変えたほうが効果が上がるかもしれません。
まず、目立った症状がない「潜伏期」は診断が難しいですが、もし早期にわかれば、抗ウイルス薬を使用するのがいいでしょう。
発熱や喉の痛みなどの症状が出始めた「初期段階」では、そこにプラスして免疫を活性化する薬。それこそ原理的に言えば、免疫のブレーキを解除するオプジーボは効果的なはずです。実際、アメリカでは治験が始まっています。
そして肺炎などを起こす「重症期」には、逆に免疫反応が暴走する「サイトカインストーム」が起きますから、それを抑えていく薬、「アクテムラ」などが有効です。このように既存薬の効能をきちんと整理して使っていくことが大切です。
なぜ日本人の死者が少ないか
ただ幸いなことに、日本では死者数が欧米などに比べ、極端に少ない。6月末時点で死者数は1000人を切っています。一般的なインフルエンザによる死者数は2017年のデータを見ると、年2600人程度。一方、コロナの死者数は、仮にこのままのペースで増えたとしても年3000人程度に留まります。わが国では、インフルエンザとコロナの死者数がほぼ同じなのです。
なぜ日本人の死者数がこれほど少ないのか。私は、人種によって異なる「免疫力」の差ではないか、と見ています。
ジョンズ・ホプキンス大学がHPで国別死者数を公表しているのですが、上位に並ぶのはスペインやイタリアなどで、人口100万人当たり約500〜600人。これに対して、日本は約7人、中国は約3人に過ぎない。ところが、決して衛生状態が良いとは言えないインドやパキスタン、バングラデシュといった国でも10〜20人程度なのです。
2桁もの大きな違いがあるということは、手洗いやうがい、マスク着用の習慣といった、よく言われているような衛生観念の高さだけが理由ではなかろうということです。
でも、それはなぜなのか。
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source : 文藝春秋 2020年8月号