時折、ファンレターをいただく。デビュー作の『若き数学者のアメリカ』の頃は、ほとんどが私の強烈な魅力に打ちのめされた若い女性からの熱い手紙だった。今は大半が私の真価を評価する、知的に成熟した年配者からのものである。
実は、ファンレターなら私も書いたことがある。初めて書いたのは小学校3年生の頃だ。巨人軍の4番、打撃の神様と言われた川上哲治選手へのもの。中学3年の時は『一数学者の肖像』を読んで、著者の小倉金之助先生に書き、高校1年の時には、『第四次元の小説』という位相幾何学的なSFを読み、翻訳者の三浦朱門さんに書いた。大学2年時には、雑誌『文學界』に載った倉橋由美子さんの『蛇』を読んで書いた。小倉先生を除き返事はなかった。
先日の私の誕生日に、佳人と思しき方からいただいた誕生日カード入りのファンレターには質問がついていた。「『国家の品格』を読み直したのですが、日本が第一次大戦後のパリ講和会議で人種差別撤廃を提案したとありました。こんなに立派な提案を時代に先駆けてしたことが、なぜ教科書には出ていず、人々にもほとんど知られていないのでしょうか。この理由を知らないまま年をとるのはいやです。ぜひ教えて下さい」
パリ講和会議では、ウッドロー・ウィルソン米大統領の提案で国際連盟が発足することとなった。戦勝国としてこの会議に出席した日本は、連盟規約に人種差別撤廃を入れるよう提案した。黒人を抱えるアメリカ、植民地をたらふく抱えるイギリスの猛反対にもかかわらず、採決の結果は賛成11反対5となった。可決と思われた矢先、議長のウィルソン米大統領が「重要な法案は全会一致が必要」と突然言い出し、日本案を斥けた。それまでの議決はすべて多数決で決定されていた。ウィルソン大統領は、黒人を公務員から排除した根っからの差別主義者だった。人種差別は今後も続けると表明されたようなものだから、日本のショックは大きく、以後、白人国家への不信は高まった。国際的な場でいつもは穏やかな日本人が、歴史的画期的な提案を世界に突きつけるという断固たる行動に出たのは、明治大正を引っ張った武士階級出身の人々にとって名誉は何より重く、開国以来の有色人種差別はとうてい耐えられるものではなかったからである。
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source : 文藝春秋 2020年9月号