著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、東山彰良さん(作家)です。
両親が広島大学に留学していたせいで、台北の祖父母の家に5歳まで預けられていた。
そのせいだろう、どんなに記憶の底をさらってみても、そのころの父に関する記憶がない。父のことで思い出せるいちばん古い記憶は、私たちが広島にいたときのものだ。日本へ引き取られたあと、私と妹は広島大学にほど近い保育園に入れられた。送り迎えはたいてい母がしていたのだが、その日はたまさか父が迎えに来てくれた。父は古臭い自転車に乗っていて、私と妹はどちらが荷台に乗せてもらうかで揉めた(揉めないわけがない)。そんなとき大人は決まって、お兄ちゃんなんだから、と言う。そんな理由では到底承服できなかったので、私は乗せてくれなきゃ太田川に飛び込んで死んでやると父を脅した。そして、堤防によじのぼった。すると、父が笑いながらこう言った。
「いいぞ、飛び込んでみろ」
高校1年生のとき、台北の居酒屋で頭をかち割られた。夏休みの帰省中の出来事だった。酔っぱらいに因縁をつけられ、ビールジョッキを投げつけられたのだ。私は血だるまになって病院に運ばれ、左耳から側頭部にかけて40針ほど縫われた。ほうほうの体で処置室から出てくると、父は息子の頭を割った男と病院の外階段に腰かけてビールを飲んでいた。
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source : 文藝春秋 2020年11月号