迷走する官邸に国中で怒りが沸き起こった
流行は最大規模に膨れ上がった
「あの大臣が一人で決めたんじゃないことはわかっている。でも目の前におったら、ぶん殴ってやりたい」
東京オリンピック開会式2日前の7月21日の夜。代々木公園近くで創業21年の居酒屋「花とら」を営む店主、高橋宏治(58)の口調は、そこだけ荒っぽくなった。
酒類提供停止の要請に応じない飲食店に対し、金融庁のグリップが効く金融機関や、免許事業者である酒販店を通じて働きかけを求めて撤回した経済財政担当大臣の西村康稔について訊ねた時のことだ。
高橋は、6月初めから休業要請に応じるのを止め、深夜まで店を開け、酒も出していた。再開直後からしばらく手書きの宣言文を店頭に掲げた。そこには「我慢の限界(略)感染予防を徹底します。お客様にもマスク会食や注意勧告することもあるかと思います」とあった。
高橋がどのような経過を経てここに至ったか。その真意は後述するが、要請ベースの日本のコロナ対策が突き当たった令和版「ええじゃないか」(幕末の世直し民衆運動)をそこに見た。
2度目の緊急事態宣言発令直後だった半年前、新型コロナウイルス感染症対策分科会の構成員、東北大学大学院教授の押谷仁が、「緊急事態宣言が長くなると無秩序に自主解除に向かう」という懸念を口にしたのを思い出す。7月末で都内の宣言期間は、都合5カ月近い。
その時が来たのだ。
緊急事態宣言発出で選手村の入村式や、さまざまな公式イベントは中止に追い込まれたが、1度増えた繁華街に集う人出は簡単には減らず、五輪が始まった頃、流行は過去1年半にはなかった最大規模に膨れ上がった。開会式の前後、国立競技場の周りでは、世界的イベントの祝祭感に触れようと、あるいは反対のシュプレヒコールを上げようと多くの人がつどい、歓声や怒声が飛び交った。その一方で、開会1時間前のNHKニュースは、都心の大学病院の中等症病床がついに満床状態になったと報じていた。
コロナ分科会会長の尾身茂が理事長を務める、地域医療機能推進機構の本部ビルでは、事件が起きた。7月21日の未明、何者かがエントランスのガラスドアにスコップを突き立て、破壊して立ち去ったのだ。
コロナ禍が始まって1年半、人口100万人あたりの死者数を見れば、先進諸国と比べ1桁少ない。政府が強制力を発動しなくとも(政権不支持層でも)、高い自衛意識から多くの人が協力要請に応じるのが持ち味だったが、五輪開催を目の前にしたこの夏、そこかしこで怒りの声が噴出した。なぜ、政府のメッセージは国民に届かなくなったのか。
菅首相と尾身会長
「やくざと一緒やないか」
前出の高橋の店に程近い代々木公園交番の信号から原宿に向かうと、右手にアールがかった吊天井で知られる国立代々木競技場(丹下健三設計)が姿を現す。1964年の五輪に際して建設され、当時は競泳やバスケットボール、57年後の今回はハンドボールの熱戦が繰り広げられた。だが緊急事態宣言を受け、中に入ったのは選手と一部の関係者のみ。公園内で予定されていたパブリックビューイングも中止になり、地元への恩恵は消えた。
昨年4月の最初の緊急事態宣言の際、高橋は「自分でなんとかしよう」と支援金を申請しなかった。今年1月の2度目の宣言、3度目の宣言では申請したが、2カ月を経ても支給されなかった。
食事メニューをプラ容器に入れ、テイクアウトで売ったがほとんど売り上げにつながらず、貯金は減る一方だった。運転資金のために4月には100万円の借金をした。従業員の生活はもちろん、21歳の長男と高校生の次男も進路を固める時期だ。
「休業しろ言うて金は出さないんか。やくざと一緒やないか」
怒鳴りあげたい気持ちで都の窓口に電話をかけると、出たのはアルバイトの臨時職員。知事の小池百合子や中枢の人間に切迫感は伝わりそうもなく、怒声を飲み込んだ。表通りに、厨房機器を載せた産廃業者のトラックが目に入ると、「どこかの店が閉めたんやろうな」と我が身が重なり寒気を覚えた。
「国民の命と健康を守っていく」と繰り返す首相の菅義偉の言葉が空疎で苛立たしく、支援金の一部が届いた頃にはもう、張り詰めたものがプツンと切れていた。テーブルにアクリル板をつけ、空気清浄機は、部屋の大きさの2倍の出力のものに変えた。6月1日、最初は夜10時まで、徐々に深夜まで延ばすと決めた。
高橋は例外ではない。この時期、渋谷や新宿など都心の繁華街を歩けば、有名テナントビルやチェーン店が並ぶ表通りはシャッターが閉まっていても、1本入ると深夜まで営業する店がいくつもあった。ネット上には「自粛中も営業している飲食店」を紹介するサイトも立ち上がった。
東京都は7月下旬になって、第4波で休業や営業時間短縮の要請に従わなかった60の飲食店に過料を科すべき、と裁判所に通知した。だが、自主解除組の規模は、この時点で数千ないしは万単位に膨らむ。
高橋は、感染拡大を心配していないわけではない。
「政治は飲食を目の敵にするが、満員電車の通勤客は大丈夫なんか。そっちをなんとかしなくていいんか」
店を再開することを宣言した店主の手書きの「宣言書」 ©広野真嗣
西村大臣発言の淵源
西村の問題発言が飛び出したのは、7月8日夜の会見だ。4度目の緊急事態宣言で、酒を出す店への休業要請が再び対策の中核となった。
西村は、「要請に応じていただけないお店の情報を金融機関と共有しながら、遵守の働きかけを行なっていただく」と述べた。「店への融資の引き揚げを背景に圧力をかける趣旨か」との記者からの問いかけに、「金融機関からも働きかけていただく」というのみで、圧力の行使を否定しなかった。
霞が関も騒然とした。もちろん、そんな方策も権限も、新型インフルエンザ特措法では認められていないからだが、菅首相が出席した前々日の5大臣会合では、誰一人異論を唱えていなかった。
万が一、実行されていれば、飲食店を要請に従わせることに成功した可能性は高い一方、銀行の優越的な地位を使う「悪手」だけに副作用の懸念もあった。企業の資金調達に詳しい経済学の研究者はこう言う。
「融資を圧力につかえば、取引先の生殺与奪の権を握ることができます。その経験は、コロナ後も悪慣行として銀行に残った可能性がある。政府にとっても、当事者たちはコロナ下での特例措置のつもりだろうが、国会の議決を経ることなく、政府の裁量で個人や企業の行動を左右する手段として記憶され、将来、再び使われる可能性もあった。西村大臣には、そういう将来まで見据えていた様子がないのが怖い」
西村が、そんな劇薬に手を出したのはなぜか。
野口悠紀雄の名著『1940年体制』は、戦前の政府が、産業界に軍需優先の経済統制を確立したプロセスを分析している。37年の日中戦争勃発と国家総動員法の制定以降、政府は生産力を高めるため、重要産業団体令など国会を経ない勅令を連発する。民間を従わせるのに利用したのが、銀行の資金の出し手としての影響力だ。戦後も温存され、省庁を先導役に官民が護送船団を組んだ経済成長期にも機能した。
他方、戦前への反省から、日本は私権制限に神経質で、特措法の強制力も抑制的だ。自粛に協力する意識が薄れ、このままでは五輪期間中に感染爆発が起きかねない——政治家の呼びかけも聞き入れられず、役所の補助金も効果薄……旧通産省出身の西村は切羽詰まった末、昭和の発想に立ち戻ったのだろうか。
西村コロナ担当相
感染研の「地図」は真っ赤に
壁にぶちあたっていたのは、西村だけではない。
政府が「4度目の宣言」を決めたのは7月8日。基本的対処方針を諮問した分科会の委員で、国立感染症研究所感染症疫学センター長の鈴木基(49)の職場を訪ねたのは、その日の午後だった。
緊急事態宣言の発令に積極的ではなかった菅だが、繁華街の滞留人口増に懸念を深め、7日の都の新規感染者数の急増(920人)を受けて決断したとされる。「宣言が出て、専門家としては安堵したか」と訊くと鈴木は、意外にも顔を曇らせた。
「重点措置延長か、宣言かはメッセージ性の違いに過ぎません。いかに市民に伝え、実効性を持たせ、維持できるか、という肝心の部分は、正直言って手詰まり感があります」
鈴木の分析の武器は、感染研に集まってくる全国の保健所の疫学データだ。「オープンデータ急進派」を自任する鈴木は、厚労省の専門家組織(アドバイザリーボード)に毎回、大量の分析資料を提出する。前日に行われていた会合でも、興味深い「地図」を提出していた。
「小地域の人口あたり感染者数」と記されたその地図は、都内の「丁目」単位のブロックごとに、人口1000人あたり感染者数の密度が高いほど濃い赤で着色される。50歳から69歳の高年齢層のシートを見ると、都心を中心にパラパラと各地が色づく程度だが、15歳から29歳の低年齢層では、都全域に濃い赤が点在し、時とともに一つ一つの点が大きくなっていることがわかる。
もはや感染は面的に連鎖して、社会活動のどこに的を絞った対策を打てばいいか、見出すことができなくなっている厳しい現実を「見える化」している地図だった。
鈴木氏提出資料「小地域の人口あたりの感染者数」
専門家も時短要請に迷い
本来、感染症専門家はリスク評価が仕事で、対策立案を担うのは国や自治体だ。酒類提供の停止要請に応じない人が増える実情について聞くと腕組みをして話した。
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source : 文藝春秋 2021年9月号