「あッ、そう。アッハアハア」と昭和天皇が大いに笑い、「単調な檻の中の生活」と秩父宮が嘆き、「摂政では駄目なんだ」と上皇が言い放った。本誌記事でふりかえる皇族の真の姿。
文藝春秋創刊の前後は近代天皇制の区切り
今回、文藝春秋が創刊から現在まで、数多く掲載してきた皇族の「肉声」の中から、10本を選んで解説していくわけですが、文藝春秋が創刊された大正12(1923)年の前後は、近代天皇制にとっても一つの画期、区切りとなる時期でした。
一般的なイメージでいうと、大日本帝国における天皇は、神聖不可侵なものであり、国民から崇め奉られる存在というものでしょう。
ところが、1910年代から20年代の大正デモクラシーの時代になると状況は変わってきます。民主主義的な空気が強まる一方、大正天皇が健康を害したこともあって、皇室の権威が弱まり、天皇制に動揺が見られるようになりました。
そうした状況で、大正10(1921)年11月、皇太子裕仁親王、後の昭和天皇が20歳で摂政に就任。近代天皇制の再編成が行われます。
文藝春秋が創刊されたのは、大日本帝国憲法の枠内とはいえ、まさに天皇制が変わろうとしていた時代だったのです。
それから100年間、文藝春秋は皇室に関する記事を、数多く掲載してきました。これらを読み返していくことで、近代天皇制の歩み、とくに戦後の象徴天皇制の歩みが、浮かび上がってきます。では、文藝春秋が報じてきた皇室の肉声には、どんな背景や意味があったのか。記事を引用しつつ、これから解説していきましょう。
昭和10(1935)年7月号 皇室と新聞 藤樫準二
昭和24(1949)年6月号 天皇陛下大いに笑ふ 辰野隆・徳川夢声・サトウ・ハチロー
昭和26(1951)年6月号 天皇家の人々 秩父宮雍仁
昭和34(1959)年1月号 この頃の皇太子殿下 小泉信三
昭和50(1975)年12月号 ワシントンの空は青かった
昭和51(1976)年1月号 オーロラに乗った天皇陛下 入江相政
平成2(1990)12月号 昭和天皇の独白8時間
平成17(2005)年10月号 両陛下サイパン慰霊にお供して 川島裕
平成23(2011)年5月号 天皇皇后両陛下の祈り 川島裕
平成24(2012)年6月号 雅子妃と愛子さま 批判に晒された2年 友納尚子
平成28(2016)年10月号 皇后は退位に反対した 本誌編集部
昭和10(1935)年7月号
「皇室と新聞」藤樫準二
文藝春秋は数多くの皇室関連記事を掲載してきましたが、戦前で目立つのはこの記事しかありません。
記事では大衆メディアの代表格だった新聞を、皇族が愛読していることが紹介されています。筆者は東京日日新聞(いまの毎日新聞)宮内省詰の記者、藤樫準二。昭和8(1933)年、香淳皇后が今の上皇を懐妊したことをスクープした人物で、皇室取材歴は戦後も含め65年におよぶ名物記者です。
この記事には、天皇の肉声がいくつか紹介されていますが、注目したいのは次の言葉です。
陛下が新聞に対して如何に御理解を有せらるるか、かつて昭和三年十二月、宮中豊明殿で御大禮職員をお召の上、御慰労の午餐会を御開催御陪食を賜った、その御席上 陛下には望月内相に対し『新聞を見ないと電気が消えたようだ』と仰せられ、内相はその御理解のほどに痛く感激したが、この尊い御言葉こそ各新聞社にとっての光栄はもとより『御愛読者としての 陛下』を仰ぐは実に恐れ多い次第である。(※表記の一部を現代風に改めています。以下同)
記事の中で「陛下」の前が一文字ぶん空いていますが、これは高貴な人へ敬意を表するためにスペースを空ける「闕字」という体裁です。
この闕字が示すように、戦前の天皇は特別な存在だったわけですが、その天皇が私たち国民と同じように新聞を愛読していると、藤樫は伝えています。記事の中では昭和天皇が読んでいる新聞として、大手紙だけでなく、地方紙も含めて26紙も挙げられています。自分と同じ新聞を読んでいると知った読者は、天皇が新聞記事をとおして世情を知ろうとしてくれるのだと、親近感を抱く。天皇の肉声を目にしたことで、文藝春秋の読者との距離も縮まる。
記事が掲載された時は、即位して10年ちかく経っていましたが、昭和天皇の体制は盤石とは言えませんでした。大正デモクラシーの勢いは衰えつつあったものの、加えてマルクス主義が入り込んできた。
一方、国外をみると、昭和6(1931)年に満州事変は始まっており、この記事の2年後には日中戦争へ突入します。そんなきな臭い時代だけに、皇室から国民へ歩み寄って一体感を醸成する必要があった。この記事の背景には、そうした事情があります。
もっとも皇室から国民へ歩み寄ったのは、この時期が最後で、藤樫が描く天皇像も、新聞を愛読している親しみやすい姿ではなく、「素晴らしい大元帥」に変わっていきます。今の目で見ると、時代の節目を記録した貴重な記事だといえます。
昭和24(1949)年6月号
「天皇陛下大いに笑ふ」辰野隆・徳川夢声・サトウ・ハチロー
この記事は文藝春秋の評価を一気に上げ、部数の大幅増につながったと言われる有名なものです。
随筆家としても知られていたフランス文学者で、東大教授の辰野隆(ゆたか)。戦前からラジオや舞台で活躍していた人気タレントの徳川夢声。詩人で「リンゴの唄」などの作詞家としても知られたサトウハチロー。
この三人がお汁粉を食べつつ、昭和天皇と2時間、たわいもない話をした。それを知った当時の文藝春秋編集長、池島信平が、3人にその体験を振り返ってもらって、14ページにわたる記事にしています。
辰野 こっちは御案内役ですからね、両大人を御紹介しなければならないんだ。どうも仕様がない。「今日は図らずも昔の不良少年が、一人ならず三人まで罷り出でまして洵に畏れ多いことでございます」と申上げたら、陛下が「あッ、そう。アッハアハア……」とお笑いになった。(笑声)
徳川 あの開幕がよかったですよ。
サトウ 傑作でしたね。
辰野 「徳川は私と同じ府立一中でございまして、ちょうど私と入れ替りぐらいに入学した後輩でございますが、サトウのほうは中学校を五年間に八度も変ったそうでございますから、どこの中学とも申上げかねます」と申上げたら、アッハアハアとお笑いになってね。
サトウ それから二時間でしたね。
辰野 そうでしたね二時間。
質素な生活を送っていた天皇
記事が掲載されたのは、敗戦の記憶も生々しい昭和24年の春。東京裁判が終結したのは、記事が出る半年前のことで、天皇の戦争責任論が声高に論じられていた時代です。
そのため宮内府(当時)も、今でいうインフルエンサーを通じて、天皇の親しみやすさを国民へ伝えようと方策を練っていた。3人との面談も、宮内府から働きかけがあったと辰野が記事で明かしています。
そうした経緯を考えると、この記事は、言ってみれば「雑誌を通した人間宣言」ではないでしょうか。
まず、3人が強調しているのが、天皇が質素で、贅沢をしていないという点です。
徳川 (前略)生物学標本御研究室へ入ったんですが、あの入り口のマット、靴を拭くやつね、あれが摺り切れてましてね、ええ。
サトウ ぼろぼろだったね。
辰野 実に質素ですよ。何から何までね。
徳川 これはしかし結構なことだナと思いましたね。そこらへんの会社の事務所だってもっといいマットですからナ。それが摺り切れマットですよ。われわれは泥だらけの靴をそいつで拭って入りましたが、これがまた廊下や何か、すべて田舎の村役場の如きものですナ。
辰野 せいぜい中学の博物実験室ですナ。机だろうが、書棚だろうが、実にとにかくお粗末なものですよ、ね。
国土が荒廃して国民の生活は苦しい状況だけに、天皇も非常に質素な生活を送っていることが示されています。以前も謁見している辰野は、「いつも同じ背広で、いつも同じネクタイですね」とも語っている。
その一方で、国民とまったく同じではない存在であることも示されています。夢声が、「あの2時間の間、一番お行儀がよかったのは陛下です」「ただヤンワリキチンとしておられる。われわれにはあの真似は出来ませんね」と語り、記事の後半には、こんなやり取りがあります。
徳川 (前略)陛下が只の人間であられることは承知しているが、それだけに、もしも陛下が、そう申しては畏れ多いけれど、もしもそのくだらないお方であったら困る。これは杞憂でした。
辰野 堂々たるものですね。古今の主権者や帝王の免れ得なかった己惚れ、実際よりも自分は偉いんだという己惚れの片鱗も持っておられない。こういう方は実に稀れではないかナ。
徳川 ええ。
辰野 見せかけなんて、どこを探してもないですね。おれはおれだよ……。これは近代人にとっていい気もちですよ、ね。
サトウ あのくらい羞かしそうになさる方は珍しいね。
徳川 我てえものがないんですよ。どこを探しても我がない。それでいて、やっぱり日本なんですナ。陛下即ち日本ですよ。そういう感じですね。だから、誰が選んだ文字か知らないが、憲法の中の“象徴”という字は正にそうです。シムボルですナ。陛下は日本てえものを人間にしたやうなもんですね。日本のいい所だけ集めて、ですよ、うん。正にシムボルです。
辰野は明治21(1888)年、夢声は明治27年、サトウは明治36年生まれ。3人とも戦前世代なので天皇への尊崇の念が、記事全体にどことなく漂っています。
この3人の文化人がそろって支持したことは、象徴天皇制が定着することにも、少なからず影響を与えたのではないでしょうか。
昭和26(1951)年6月号
「天皇家の人々 ―はじめて世に出る皇族の自叙伝―」秩父宮雍仁
これは昭和天皇の1歳ちがいの弟、秩父宮による随想です。スポーツが好きで、陸軍軍人でもあった秩父宮は若い時から何かと注目を集めた存在でしたが、38歳のとき肺結核にかかり、昭和15(1940)年から療養生活を余儀なくされました。この自叙伝が掲載されてから2年も経たないうちに、50歳で亡くなります。
皇族がみずから文藝春秋へ寄稿したのは、この自叙伝が最初です。筆の立つ秩父宮は終戦直後から他の雑誌にも寄稿していますが、他誌では主張が前面に出た硬い内容が多いのに対して、文藝春秋では、広く読者の共感を誘う内容になっているというところが大きく違います。
自分の出生にはじまり、幼少期の生活、明治天皇の崩御、祖母である昭憲皇太后との思い出、父である大正天皇の家庭内の姿、そして兄との別れまでを、じつに18ページにわたって切々と綴っています。
大正の改元と共に兄上は東宮と、僕等は皇孫から皇子と呼ばれるようになった。
大正元年は一カ月一カ月と進んでいつた。父上の東宮大夫であつた人が兄上の東宮大夫となり、侍従が出来、東宮武官が出入するようになつた。兄上は任官された。(中略)然し僕にはまだはっきりと皇太子と云う意味がわからなかったものと見える。それで崩御後間もない頃、兄上に、
「おにい様、皇太子殿下には御結婚遊ばすとおなりになるのでしょう」と話しかけた。父上の場合を頭に描いて、皇太子は夫婦でなければならないとでも思ったのであろう。と側にいた弟は、
「オニイサマ、ゴケッコンッテナーニ? ニワトリナノ?」と。将に傑作の落し話である。
愈々兄上は東宮として東宮職員に取りまかれて別の生活を始められることになった。(中略)何時かは来るべきものではあったにしろ、その時が何時であろうなどとは考えたこともなかったのだから淋しさ此の上もないものがあった。(中略)いくらくやんでも、ぐちをこぼしても甲斐のないことだが、明治天皇のおなくなりになったことを恨まないではいられなかった。
明治天皇が崩御し、兄である後の昭和天皇が皇太子となったため、他の兄弟とは別の場所で住むことを余儀なくされた。離れ離れになるつらさ、悲しさが伝わってきます。
自分の立場を檻にたとえ
戦後、天皇制が危機に瀕したとき昭和天皇の弟である秩父宮、高松宮、三笠宮の3人は戦時中のイメージを払拭し、皇室を維持するために積極的に活動します。高松宮は新聞などのインタビューを積極的に受けたり、全国各地を訪問しました。三笠宮もインタビュー、全国訪問によって、メディアへ露出しています。長年、御殿場別邸で療養していた秩父宮は、各地の訪問は勢津子妃に任せ、自身は取材を受けたり、執筆に精を出しました。
この自叙伝が発表された時期、1度は沈静化した天皇退位論が再び浮上していました。天皇の道徳的な責任は解消されていないという見方は右にも左にもあった。そうした状況を案じた秩父宮が病をおして、筆を執ったのかもしれません。
この自叙伝には、「戦前、私たちは神格化されていましたが、それは例外的で、いまの象徴天皇制のほうが伝統的な天皇のあり方にふさわしい。私たちも皆さんと同じように、実は悩み、苦しんだのですよ」という秩父宮の思いがこめられていると感じます。
次に紹介する箇所では、自らの置かれた立場を「檻」にたとえ、何不自由ない生活ではあるものの、そこに生きる苦しさを綴っています。
人生誰でも不平不満を持たない者はなかろうが、親の愛にひたること少なく、個性を延ばすことが出来ずに、鋳型に鋳込まれる様に育てられ、生れてから死ぬ迄敷かれた軌道の上を走らされたり、檻の中の動物に喩えられる様な人生があるとすれば、之位あじきないものはないと云えるのではなかろうか。(中略)ところが動物園の檻の中の生活は餌は充分に与えられるし、外敵に対しては檻が守ってくれるので、生きる為の心配は何もなくこんな極楽はない。野獣が広い地域を歩き廻るのは獲物を求める為だから餌さえ与えられるなら天地の狭い事など大きな問題ではないと云うのである。然し単調な檻の中の生活には流石に飽きるらしく、芸を仕込まれることをとても喜ぶものがある。象などは其の1つだそうだが、野獣のほんとうの気持は言葉が通じない限り解るものではあるまい。人間の場合も之と似た事が云えるかも知れないが、人間は少くも野獣程単純でないことだけは確かだ。
執筆時、秩父宮は自分の死期を悟っていたのかもしれません。文章が内省的、自制的です。元気なときの秩父宮は、昭和天皇とたびたび衝突しています。しかし死を意識したこのときは、自らを抑え、兄のサポート役に徹しようとしていたように感じられます。
率直に語る場としての文藝春秋
秩父宮の自叙伝のように、文藝春秋は皇族の思いを直接的に長く語る場として選ばれているわけですが、これは他の新聞・雑誌には見られない特徴で、昭和51(1976)年2月号では秩父宮勢津子妃、高松宮夫妻、寬仁親王が一堂に会して、
「われわれには基本的人権ってのはあんまりないんじゃない?」
「僕なんか住民税まで払わされるわけよ。戸籍がないのに……」
などと、率直に発言している座談会が掲載されています。
昭和57年1月号では、やはり寬仁親王が「皇室について知ってほしいこと」という記事の中で、こう語っています。
「“菊のカーテン”とかなんとかいうけど、そんなものは、本当に全然ないんだけどね」
「当時は、マスコミを通じてのぼくのイメージは、非常によくなかったですね。だって、プレイボーイだとか、やれ、どこの芸者とつき合いがあるの、ホステスとどうの、というようなことばっかりが、マスコミを賑わしていた頃だから、ぼくの仕事内容はちっとも伝わってない」
こうした率直な言葉が皇族から発せられる機会が、このところ減ってきているのは残念ですし、国民の皇室観にも影響があると思います。
昭和34(1959)年1月号
「この頃の皇太子殿下」小泉信三(東宮御教育参与)
これこそ、しかるべきタイミングで、適切な人物が発言している記事だと言えるでしょう。現在も研究者の間では、よく知られた文章です。
題名にある「皇太子殿下」とは、いまの上皇を指しています。注目すべきは記事が発表された時期。掲載された雑誌が発売されたのは前年の12月ですが、その昭和33(1958)年11月27日に、24歳の皇太子明仁親王と正田美智子さんの婚約が発表され、ミッチー・ブームが巻き起こりました。
つまり、婚約発表の直後に、皇太子の教育係として世間に知られていた小泉信三が寄稿しているのです。
小泉は14年もの長きにわたって慶應義塾長を務めた経済学者で、当代一流の知識人でした。皇族や華族に連なるわけではありませんが、戦後、15歳になった皇太子の教育係を委嘱されました。
この「世紀のご成婚」でも、小泉が一種のプランナーとでもいうべき役割を果たしていたことは広まっていました。だから国民は、この記事が「公式見解」だと受け取ったのです。分量は4ページと短いのですが、じつに考えつくされています。さっそく見ていきましょう。
そういう折りの或るときであった。私は殿下がいわれたお言葉を、よく憶えている。それはこういう意味のものであった。
自分は生れからも、環境からも、世間の事情に迂く、人に対する思いやりの足りない心配がある。どうしても人情に通じて、そういう深い思いやりのある人に助けてもらわなければならぬ。
それは二三年前のことであった。正田美智子嬢との御婚約の定まった今、私はしきりにその時のことを思う。
この一節はよく知られたもので、なぜ美智子さんと結婚したのか、皇太子の思いが綴られています。
皇太子人気と結婚問題
注目したいのは、「二三年前のこと」という一言です。これには背景の解説が必要でしょう。
昭和28(1953)年、皇太子はハワイ、サンフランシスコ、ニューヨークを経てイギリスへ渡り、昭和天皇の名代としてエリザベス女王の戴冠式に出席しました。この「新生日本のシンボル」の外遊が、メディアで大きく報じられて、皇太子の人気が爆発します。ちなみに小泉も随行しています。
このとき皇太子は19歳。皇太子の場合は18歳が成人ですし、昭和天皇は20歳になる前に婚約が成立していましたから、いやおうなく結婚問題にも関心が集まりました。
ところが戦後ですから華族制度もなくなり結婚問題は難航。「まだ決まらないのか」と、国民がやきもきするうちに、皇太子人気も次第に陰りをみせていきました。
小泉が、わざわざ「二三年前のこと」と書いているのは、これまで皇太子が結婚を決められなかったわけではなくて、以前から熟慮していましたよと、さりげなくアピールするためです。
その前には「殿下の御考えは堅実で周到で、お年よりも老成の風があった」とも書いています。これは皇太子が次の天皇としてふさわしいことを示した文章です。
この文章で小泉は、単に美智子さんと結婚した経緯を書こうとしたわけではなく、即位後を見すえて、今後はこの2人が新しい皇室像を築いていくことを、国民へ伝えようとしているのです。
恋愛結婚への反対派もいた
小泉信三が皇太子の「帝王学」のテキストとして、英国王ジョージ5世の伝記と、福沢諭吉の『帝室論』を用いたのは知られていますが、この寄稿でも、ジョージ5世伝は重要な小道具として登場します。
ジョージ5世は、いまのエリザベス女王の祖父で、イギリスの立憲君主制における模範と位置づけられている存在です。昭和天皇も、皇太子時代の英国訪問で、直接の薫陶をうけています。
小泉は、そのジョージ5世の結婚のエピソードを紹介してこう続けます。
英米人はよく、整えられた結婚(アレンジド・マリツジ)と愛の結婚ということをいう。そうして、後者をよしとするような風がある。けれども、前記の通りジョージ親王のそれは、明かに整えられた結婚であった。しかもそれによって王は凡そこれ以上を望みようのない妻を得たのである。
小泉がこの一文を書いたのにも当然、明確な理由があります。このとき世間は「テニスコートの恋」だ、恋愛結婚だと大いに盛り上がっていましたが、その一方で、皇太子が民衆と同じような恋愛をすることは権威を損なうと、批判する勢力もありました。
この記事が出た後のことですが、国会で「恋愛問題」が取り上げられ、宮内庁長官が、そんな「うわついた御態度」ではないと、恋愛を否定する答弁をしたところ、今度はそうした姿勢が保守的だと、別方向からの批判を招いたこともありました。
このとき小泉は、恋愛反対派に配慮して、今回の結婚は整えられたものですよと、やんわりと伝えています。ただし恋愛結婚ブームへ露骨に水を差すと、「古臭い結婚だ」「日本国憲法には婚姻は両性の合意のみに基いて成立とあるではないか」という批判が生じる。
そうした国民の分断を招かないために、この結婚は単に惚れたはれたという話ではないし、皇太子ご本人が熟慮した上で、最終的にはご意思で決まったという形でバランスをとった。凝縮された内容の文章です。
小泉信三が亡くなったのは昭和41(1966)年です。半世紀以上が経った今も、皇室をめぐる騒動が起きるたびに、「小泉信三がいればこんなことにはならなかった」と引き合いにだされる理由も、この記事を読めば、納得できるでしょう。
昭和50(1975)年12月号
「ワシントンの空は青かった」
昭和51(1976)年1月号
「オーロラに乗った天皇陛下」入江相政(侍従長)
この随行記を書いた入江相政は、昭和天皇の長年の側近で、スポークスマンとして知られた人物です。
冷泉家の末裔で、父は子爵、母は大正天皇の生母・柳原愛子の姪という天皇家に近い生まれです。昭和9(1934)年に昭和天皇の侍従となり、昭和60年に現職の侍従長のまま80歳で亡くなりました。
歌人、随筆家としても知られ、文藝春秋はもちろんのこと、各種メディアへ頻繁に登場。没後に一部が刊行された『入江相政日記』は貴重な史料になっています。
その入江が、昭和50(1975)年9月末から15日間にわたった昭和天皇の訪米について、2回にわたって書いています。
あわせて20ページにおよぶ長い文章ですが、じつは天皇の肉声はあまり紹介されていません。しかし、そこにこそ、この記事の価値があるのです。
いうまでもなくアメリカ訪問は、いわゆる皇室外交の中でも最重要課題と位置づけられます。
しかしアメリカでは、戦争責任を問う声は少なくなかったし、国内にも訪米に批判的な声はあがっていました。
この訪米は極めて政治的に微妙な問題ですが、昭和天皇の胸中を伝えて国民の理解を得たいし、訪米が成功に終わったことも示したい。
それが可能なのは長く宮中にいて機微に通じ、しかも筆が立つ入江ぐらいではないでしょうか。後にも先にもそうした人物は現れていません。
では、文章中の貴重な肉声を紹介しましょう。フォード大統領との歓談の場面です。
十月四日。
ワシントンから、ニューヨークへ向けてお発ちの朝。陛下のほうからホワイト・ハウスへお別れにおいでになるはずのところ、大統領夫妻がご宿舎のブレア・ハウスへ来られるという。これも異例のこと。ただのご挨拶だけでなく、一室でご歓談。
途中で爆笑がおこった。競技のお話になった時、どっちかを応援するということになると、気のもめるものと大統領が言われたら、陛下はすかさず、あしたアメリカン・フットボールを見ますが、もし大統領が出場なさるのだったら、さぞ気がもめましょうが、あしたはお出にならないから、安心して見ることができますと、おっしゃった。
フォード大統領はアメリカン・フットボールの「往年の名選手」だったとかで、それを引き合いに出した昭和天皇のジョークで、大いに盛り上がったという場面です。
じつはこの歓談の2日前に開かれた大統領夫妻の歓迎晩餐会で、昭和天皇は「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後」とスピーチで戦争に触れています。
しかし入江はそうした政治的な話題を避けて、晩餐会については日系人議員やライシャワー元駐日大使、野球のハンク・アーロンなどが出席したという描写にとどめています。
そして晩餐会の後、昭和天皇が異例の厚遇をうけたことや、フォード大統領と親しく会話した風景を描くことで、そのスピーチがアメリカ側にも受け入れられたと、暗に語っているのです。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2022年1月号