世界初の五大陸最高峰登頂など数々の偉業を達成した冒険家の植村直己(1941~1984)は、冬季マッキンリー単独登頂を果たした後、下山中に消息を絶った。公子夫人が植村との生活を振り返る。
昭和49年春に私たちが結婚した時、新婚旅行の予定がないと知った山岳部の大先輩が、水上温泉の宿を取ってくれました。それに背中を押されて上野駅に向かったのは良かったものの、なんと急行電車に乗り遅れてしまった。植村は次の電車の指定席券を手に入れるために駅中を走りまわっていました。ホームに取り残された私は、「怒ってはダメ」と自分に言い聞かせたものです。
新婚生活はそんな風に始まりました。その後、苦労しなかったと言えば嘘になりますが、植村は贅沢することなく、スポンサーからの活動資金は生活費には決して使いませんでした。
人には無限大に優しいけど、家ではわがままな性格でした。普段は嫌いなものは食べないのに、人前では「美味しい、美味しい」と言って何でも食べる。植村は家を空けることも多かったので、「犬でも飼おうかしら」と言ったら、「こんな狭いところで飼うなんて可哀想だよ」と却下されたこともあります。植村にとって、犬は北極を駆けるものだったのでしょう。
その北極から帰って来た時には、生肉を食べていたからでしょうか、植村の体から獣の臭いがしました。山から帰って来た時は、焚火のためか燻すような臭い。行った場所によって臭いが違うのです。
植村直己
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source : 文藝春秋 2022年1月号