シェイクスピアの台詞

巻頭随筆

松岡 和子 翻訳家
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「シェイクスピア・ハイ」――これは俳優の横田栄司さんがその役者経験から産み出した造語である。横田さんは蜷川幸雄さんの演出する舞台の常連で、だから彩の国シェイクスピア・シリーズでも重要な役を数多く演じてきた。『ヴェニスの商人』のバサーニオや『ジュリアス・シーザー』のシーザーなど。口跡は綺麗だし滑舌はいいし、役の捉え方は的確だし、翻訳者にとってはまことに頼りになる俳優の一人だ。

 その横田さんが、『ヴェローナの二紳士』のポストトークのときに、「シェイクスピア・ハイっていうのがあるんですよ」と言った。

 ランナーズ・ハイとかクライマーズ・ハイに類する(らしい)「ハイ」。ランナーが長時間走り続けているうちに、苦しかった呼吸が突然楽になり、脚も軽くなって気分が高揚してくる状態。クライマー(登山者)の場合は、この状態になると恐怖感すら麻痺してしまうそうだ。

 走者や登攀者にとっての「走り」や「登り」の辛さ苦しさは、俳優にとっては台詞を覚えて言葉と役を自分のものにする苦闘に当たるだろう。

 シェイクスピアの台詞は、語彙も言い回しもレトリックも、私たちが普段使っている言葉とはかなり違うから、それを覚える大変さは想像に難くない。だが、日常語と違っているからこそ、いったんシェイクスピアの台詞が「入って」しまうと、そしてそのリズムや意味やイメージを自分の言葉として発するとなると、そのときの高揚感には格別のものがあるのだろう。それが横田さんの言う「シェイクスピア・ハイ」。

 台詞の覚え方は役者によって様々だろうが、このトークの時に横田さんは彼の方法を明かしてくれた。たとえば10行の台詞を覚えるとすると、1日目に1行、2日目には1行と2行、3日目には1行と2行と3行、4日目には……と10日かけて徐々に心身に染み込ませてゆくのだという。

 いま、シェイクスピアの台詞は私たちが普段使っている言葉とは違う、と言ったが、これについても忘れられない思い出がある。

『夏の夜の夢』は私が訳した2本目のシェイクスピア劇だが、串田和美さん演出の稽古場で或る役者さんが言った、「俺たち普段こんなこと言わないよな」。横で聞いていた私は「すみません」という気持ちになって心うなだれた。

 ところが、である。それから2、3年後だったろうか、一昨年亡くなった出口典雄さん主宰の劇団シェイクスピアシアターで俳優として活躍し、いまは演劇制作に携わる中島晴美さんの言葉で目から鱗がバラバラ。

 中島さんはこう言った、「知ってるけど言ったことのない言葉っていっぱいあるじゃない? シェイクスピアをやると、そういう言葉を言えるから嬉しい」。

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source : 文藝春秋 2022年3月号

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