「引き返すならいましかない」。実学を退け文学を志した。
鹿島氏
菊池寛の普遍性志向
1909年(明治42年)の夏休み、菊池寛は高松に帰省中、高等師範からの除籍通知を受け取った。在学は1年半にも満たなかったか? 自業自得と思ったので、高等師範への恨みは感じなかった。父や長兄はひとことも小言を言わなかったが、一家の希望が潰えたことに落胆していることははっきりと見てとれた。
さて、どうするか?
菊池寛が高等師範になじめなかった最大の原因は、普遍的知識に対し強い渇望を感じていたのに、教員の養成機関である高師にはそれを見出せなかったことにある。
では、菊池寛に特有のこの普遍性志向というものはどこから生まれたのかといえば、それは明治期の中学校という制度そのものに内在する傾向からだった。
明治の中等教育は高等学校へのアクセスだけを目的とする普通教育をその本質としていた。中学校卒業者の多くが学業を終えれば社会に出て働くことになっていたにもかかわらず、職業教育がまったく顧みられていなかったというのはかなり異様な制度設計であるといわざるをえない。商業学校や工業学校といった職業教育学校が全国各地に生まれるのは明治末年にすぎない。
では、なぜこのような無理のある制度設計が行われたのかといえば、一つは文部省の役人たちが模範と仰いだヨーロッパの中等教育がギリシャ語・ラテン語中心の古典的普遍教育だったことに起因する。強烈な身分制社会であったヨーロッパの実情を知ることもなく、発展途上国であった明治日本が先進国の教育制度をそのまま引き写し、ギリシャ語・ラテン語を漢文に読み替えたために起こった悲喜劇である。
しかし、それだけではない。文部省の役人のほとんどが士族階級だったため、職業教育という概念がそもそも存在せず、教育といえば旧藩校で受けた四書五経の解読のような教養教育であると理解していたのである。
しからば、菊池寛自身はどうだったのだろう? 図書館での乱読と中学校の普通教育で普遍性志向が強まった可能性はある。しかし、よく考えると、彼の中にはそれ以前から普遍性志向がいわば内在しており、それが図書館での乱読や中等教育で顕在化したといったほうがいいかもしれない。それはズバリ、高松藩の藩儒という彼の家系ゆえであった。
菊池寛
「菊池」姓を誤った永井荷風への怒り
連載第2回で軽く触れたように、菊池寛の先祖には文化文政から天保期にかけて活躍した漢詩文の名手・菊池五山がいた。中村真一郎は『頼山陽とその時代』の中で、五山をこう評している。
「[市河]寛斎門で、[大窪]詩仏と共に両翼をなしていたのは菊池五山である。
菊池五山(一七六九-一八四九)、名は桐孫、字は無絃、五山又娯庵と号した。通称は左大夫、高松の人である。
彼はこの一派の文人たちの作りあげたジャーナリズムの社会の中心人物であった。彼は一流の詩人であると同時に、一流の批評家であった。その地位はフランス十九世紀前半の文壇でのサントブーヴに匹敵する。そして丁度、サントブーヴが『月曜談叢』という時評によって、『一代ノ風騒、較量ヲ費』やしたように、五山は『五山堂詩話』を年々、続刊することで、いわば化政天保期の詩壇の交通整理の任を果した。(中略)
五山は僚友の詩仏とは異って、趣味人風のところはなく、生活もまた文筆業を能率的に行うための、実用的なものであった。さきに詩仏を『藝能人』であると評した富士川英郎氏は、五山のなかに『菊池寛の遠祖たるに恥じない近代的なジャーナリストの面影』を見出している」(ちくま学芸文庫)
日記に菊池の悪口を書き連ねていた永井荷風
富士川英郎だけでなく、この菊池五山の経歴を見れば、だれもが菊池寛との類縁を認めざるをえないが、では菊池寛自身はどうだったのだろうか?
先祖のことをかなり誇りに思っていたことは確かである。1924年(大正13年)3月号の『文藝春秋』掲載の「自分の名前」と題した「文芸当座帳」で菊池寛は「自分の名前を書き違へられるほど、不愉快なことはない」と書き出し、「一体菊地など云ふ姓は、日本姓氏録にある名前とは思はれない」と続けてから、こう書き記しているからである。
「所が、『女性』三月号を見ると永井荷風氏が天保弘化の漢詩人菊池五山のことを悉く、菊地五山と書いてゐる。当代第一の文人たる永井荷風氏の文章だから、雑誌社の方でも厳校の上にも厳校を加へてゐる筈だから、七八ケ所も出て来る菊地が悉く誤植であるとは思ひ得ないのである。
菊池五山は、自分の遠祖高松藩文学菊池万年の家弟で、江戸へ出て一家を成した男であるから、菊地姓を名乗つてゐる筈はないのである。常に、博識を以て自任し、現代文人の無学無文字を嘲つてゐる荷風先生にして、肝心の人の姓名を誤書するに至つては、沙汰の限りである。難しさうな詩句などを引用するのも、非常に結構だが、それよりも前に、人の名前位は、正確に書いてもいゝだらう」(『菊池寛全集 第24巻』高松市菊池寛記念館)
菊池寛と『文藝春秋』が永井荷風の不倶戴天の敵となる一因となった因縁の一文であるが、そのことは措いて、五山との関係に絞ると、テクストは明らかに先祖の五山に対して菊池寛が深い尊敬を抱いていたことを証拠立てている。自分の名前を誤記されたのではなく、先祖の五山のそれを「菊地」と書かれたことにこれだけ怒っているのだから、菊池寛の心の中ではこの先祖との同一視が存在していたと見なしてよいのだ。
夏休みの思いがけない話
さて、いささか脱線したが、話を元に戻すと、私が言いたかったことは次のように要約できる。すなわち、菊池寛においては、藩儒の家系への誇りがもとからあったため漢学特有の普遍性志向が伏線として存在していたのだが、それが図書館での乱読や中学校という制度に内在する一般教育理念によって、より顕在化してきたのだと。
しかし、そうならば、なおのこと、菊池寛が夏休み明けに選択した明治大学法学科への進学という選択は理解しがたいように思われるのだが、そのあたりのところを菊池寛自身はどう考えていたのだろうか?
「私の新しい方針は、短日月の間に、身を立てる手段として法律をやろうと思ったことである、法律をやって、弁護士か司法官の試験を受けようと考えたのである。私は、自分の学才と頭脳とを以てすれば二、三年もすれば及第するような気がしたのである」(『半自叙伝 無名作家の日記他4篇』岩波文庫 以下、断りのない限り、引用は同書)
これは菊池寛のような記憶力抜群でまた理解力も秀でている秀才がいかにも考えそうなことである。本心ではあくまで普遍性志向なのだが、少しのあいだ我慢して実利的な勉強に打ち込めば、だれにも頼ることなく1本立ちできるようになる。ならば、普遍的な学問に戻るのは、その後でもいいじゃないかという発想である。
たしかに、合理主義者菊池寛らしい選択肢であるが、では、なにゆえに初めからこのオプションを取らなかったのかといえば、それは、司法試験に合格するには神田神保町周辺に蝟集する法律学校に通わなければならず、それにはかなりの学資が必要だったということに尽きる。つまり、どの選択肢を取ろうにも、実家の貧困という根本原因に突き当たる限りダブル・バインドが働いて振り出しに戻るという無駄が繰り返されていたのだ。ところが、夏休みも終わろうとしている頃、そのダブル・バインドを解消できるような思いがけない話が持ち込まれたのである。
「イエ」と投資としての養子縁組
「しかしその方面に進むにも学資であるが、幸い私の伯母(と云っても血のつづかない伯母だが)がそのとき結婚した老人がいた。伯母が四十近くでした晩婚の相手であるから、五十以上の老人であろう。この老人が、私がその老人の養子になればそれだけの学資を出そうと云い出したのである」
菊池寛は引き続いて、養子の提案を受け入れた心理と家庭事情についてこんな説明をしている。
親類縁者の間では、菊池寛秀才伝説は高等師範除籍騒動にもかかわらず絶大で、大秀才をくすぶらせておくのはもったいないという認識が共有されていた。そのため、伯母の夫が学資の負担を名乗り出たわけであるが、その伯母の夫というのは「高利貸でもし兼ねまじき老人で、私に学資を出そうと云うのは全然投資の意味」であった。
ここで菊池寛が述べている《投資としての養子縁組》というのは現代の読者にはわかりにくいかもしれないので、解説しておこう。
日本では、直系家族(親夫婦と子供夫婦の1組だけが同居するタイプの家族類型)が武士の台頭で鎌倉後期から普及するようになったが、上層民衆にもこれが広がったのは江戸期に檀家制度が確立してからのこと。いわゆる「イエ」の概念が出来上がってからだ。
この「イエ」が共同幻想において第一義とされたゆえ、男の跡継ぎがない家は他家の次男、三男を娘の婿養子に迎え、子供がいない家では夫婦養子を取ってまで「イエ」を存続させるという風習が生まれたのだが、この養子制度のミソは、単にイエの継承という観念的な利益だけではなく、親夫婦が老いたときの介護保険的な実利的意味合いも含んでいたことにある。養子の「養」は、「親」が「子」を養う義務を負うという意味だけではなく、「親」が老いたときには「子」にも「親」を養う義務が生じるという相互義務的なニュアンスも含有していた。すなわち、菊池寛がいうように、養子縁組には老後を見込んでの投資という要素も多分にあったのである。
したがって、菊池家のような貧乏な上に子沢山、しかも次男、三男は優秀という家庭であれば、親戚や知り合いから養子の話はかなり舞い込んでいたはずなのである。
この傾向は戦前までは全国で観察できた。文学者に限っても、夏目漱石、芥川龍之介、柳田国男など、養家の姓を名乗ったことのある者は枚挙に暇がない。養子縁組は、血縁第一主義を取らない直系家族という特殊な家族形態の日本においては、ごく一般的だったのである。
養子となり学資援助を受ける
菊池寛は、この養子の件について、高等師範入学決定以前にも話があったことをこう記している。
「それは、弁護士の家だったが、条件として私を高等学校から大学にやってくれると云うことであった。高等学校を渇望していた私は、一にも二にも養子に行こうと思った。ところが、父が反対なのである。父は、私に菊池姓を名乗らして置きたいと云うのである。(中略)父は儒者としての家に、いくらか誇りを持ち、私に依って家名を興すことを、心の内に思っていたのであるかも知れない」
じつは、もう一件、これは養子縁組ではないが、学資提供の話があった。それは、土地の小学校の校長からの申し込みで、菊池寛と同級の息子の学友として高等学校から大学への学資を出してやってもいいという話だったのだが、父親はそれを高等師範入学が決まってから打ち明けたのである。なぜ、すぐに伝えてくれなかったのか悔やんでも、すべて後の祭りであった。
そのため、除籍通知を受け取ってもんもんとしていた夏休みに舞い込んだ養子縁組の話は、菊池寛にとってはまさに渡りに船であり、父も反対しなかった。
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source : 文藝春秋 2022年4月号