恋する18歳

菊池寛 アンド・カンパニー 第5回

鹿島 茂 フランス文学者
ライフ 読書 歴史
第一高等学校で得た「親友」と「恋人」。
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鹿島氏

貧しさゆえの回り道

 1910年(明治43年)8月5日付けの官報第8137号に第一高等学校入学許可者名簿が発表された。

 菊池寛が志望していた第一部乙類は激戦が予想されていた。というのも、この年から、中学校の優秀成績者が10名程度無試験で入学できる制度が設けられたのに加えて、前年度に、岩元禎教授(『三四郎』の広田先生のモデル)のドイツ語試験で不合格にされた生徒が10人ほど留年して定員枠に割り込んだため、志願者116名のうち試験で入学できる定員は40人前後のはずが20人前後しかないという事態になっていたからである。

 菊池寛はというと、7月末に入学試験を終えたあとも東京に止まり、結果が発表されるのを待っていた。英語には絶対の自信があったが、実は苦手だと思っていた数学も10問中9問も正解できたので、大いなる期待を抱いて待機していたのである。

「下谷の三崎町のミルクホールで、官報を見て、入学を知ったときは、さすがにうれしかった。そして、すぐ帰国したが、東海道線の汽車の中で、わたしは可なり得意で、甲板デッキに出て歌など唱ったものである」(『半自叙伝 無名作家の日記他4篇』岩波文庫 以下、断りのない限り引用は同書)

 貧しさゆえの長い回り道だったが、この一高入学により、ようやく思い定めていた「普遍性への道」が大きく開けていくのを汽車の最後部のデッキに立って実感していたにちがいない。

鹿島さん③
 
菊池寛

得難い友と巡りあった一高時代

 この年の第一部乙類の入学者は後々、語り種になるほど多士済々だった。

 官報によれば、まず、無試験合格者8名に、長崎太郎(1位。後の京都市立美術大学学長)、石原登(3位。非行少年少女の更生教育で名を残す教育者)、芥川龍之介(4位)、佐野文夫(5位。菊池寛と「マント事件」を引き起こした後、日本共産党委員長となる)、久米正雄(8位。作家)がいた。

 また試験合格者21名には、菊池寛(4位)、石田幹之助(5位。東洋史学者。東洋文庫の生みの親)、井川(恒藤)恭(7位。後の大阪市立大学学長)、松岡善譲(通称譲。8位。夏目漱石の娘婿)がいた。

 ちなみに、一高の寮で同室となる後のフランス文学者・成瀬正一は第1志望の第一部甲類に不合格となり、第2志望の第一部乙類に回されたので、合格者名簿には記載されていなかった。

 ほかに、第一部丙類には『出家とその弟子』の倉田百三、レマルク『西部戦線異状なし』の翻訳者で、戦後、東宝で額縁ショーを演出する秦豊吉、プロレタリア作家となる藤森成吉などがいた。さらに、岩元禎教授によって留年させられた中には山本有三(作家・劇作家)、土屋文明(歌人)も混じっていた。

 フランスの高等師範1924年入学生にサルトル、レイモン・アロン、ポール・ニザン、カンギレームが揃っていたのに譬えられる大豊作の学年であり、遅れを取り戻しておつりがくるほどの知己を一気に大量に獲得することができた菊池寛はなんとも幸運だった。もし、2年前にストレートで一高に入っていたとしたら、案外、語るべき友もおらず寂しい思いをしたのかもしれない。まさに、「偶然の必然」によって、得難い友たちと巡りあったのである。

 ところで、右に名を挙げた同級生の中で、菊池寛が最初に顔見知りとなったのは井川(恒藤)恭だった。恒藤恭は「文藝春秋」昭和23年10月号の追悼文「学生時代の菊池寛」で最初に菊池寛に会ったときの思い出を語り、筆記試験の後の身体検査で、前に並んでいた菊池寛と会話を交わし、年齢よりずっとふけて見える四角張ったいかつい顔が「若い女のような、むっちりした曲線的な肉つき」の体の上に乗っているというその「肉体的矛盾」に強い印象を受けたと書いている。

 いっぽう、菊池寛も恒藤(井川)恭のことは『半自叙伝』で最初に言及している。

「井川君は少し若老と云う気がしたが、温厚の長者の風があった。同君は、中学卒業後、事情があり三、四年休学したと見え、このときが僕と同じく二十三歳であった。長齢を恥しく思っていた僕は、井川君が同年であったことは、たいへん心づよいことだった」

 しかし、菊池寛はそのまま井川恭と親友になったわけではなかった。というのも、井川恭は2年生の部屋替えにより北寮3番の部屋で芥川龍之介と同室となると芥川と無二の親友となるからである。

 この2人の関係について、菊池寛は芥川の自死直後に書いた追悼文にこう記している。

「一高時代に、芥川は恒藤君と最も親しかった。一高時代は、一組ずつの親友を作るものだが、芥川の相手は恒藤君であった。この二人の秀才は、超然としていた。と、云って我々は我々で久米、佐野、松岡などと一しょに野党として、暴れ廻っていたが、僕は芥川とは交際しなかった」(石割透編『芥川追想』岩波文庫)

「芥川は、白皙で、唇が真赤だった」

 この時代の超エリート集団である一高における「親友」というのは、今の時代の人間には想像もつかないほど濃密な、吉本隆明のいう「対幻想」的な関係にあり、かならずしもホモセクシュアルではないが、十分すぎるほどにホモソーシャルな「一対一」の強い紐帯で結ばれていた。だから、だれとだれがカップルをつくっていたかということが非常に重要なのである。

 とはいえ、芥川龍之介が菊池寛にとって気になる存在だったことは確かで、いささかエロスの香りのするこんな印象を記している。

「芥川は、白皙はくせきで、唇が気持がわるい位、真赤だった。都会育ちの少年らしくよわよわとしていた。入学して間もなく、体操の時間に、入学願書に添わした写真を本人と照し会わせて見ることがあった。そのとき、上級生がやって来て、その写真を見、『これが一番シャンだ』と云って芥川の写真を見ていたのを記憶している。(中略)

一年生時代に、芥川は佐野文夫と親しかった。人とも秀才でどこかに圭角を蔵していた」

 あるとき、芥川と佐野が話しているのを見た菊池寛は、2人の気を引くため「僕は、原書をよむと、ねむくなって仕方がない」と話しかけてみた。すると、どちらかが「じゃ、またねむくないときに読めばいいじゃないか」と答えた。菊池寛は「これは、どちらが云ったか分らないが、どちらが云ったとも考えられるほど、人とも少し威張っていた」としてから、「然し、芥川と佐野とは、すぐ離れた。両方の才気がうまく調和しなかったのだろう」と指摘している。

 こうした超エリート校での超々エリート同士の関係の作り方というのはなかなか興味深い。井川、芥川、佐野、菊池寛というのが、その超々エリート集団のメンバーだったのだが、そこでは知性と気質と性格が複雑に絡み合って緊張した関係が生まれていたのである。思うに、菊池寛はこうした記憶から『ゼラール中尉』を書いたのではないかと想像される。たとえば、こんな箇所である。

「[ガスコアン大尉の神経に触り始めたのは]中尉ゼラールは如何なる場合にも、自分の意志を徹すと云ふ殆ど病的に近い性癖を持つて居る事であつた。

カフェーへ行くと、中尉は極つて、友人の賛同を待たずに『ポンチ二つ』と、註文する。(中略)こんな時にガスコアン大尉が強ひてキュラソを註文する事は、二人の間のまだ基礎の浅い友情を、傷ける事は勿論、普通一般の社交の精神にも反することである。で仕方なく大尉は心の裡の不平を殺しながら、体よく自分の要求を曲げるより外に仕方がなかつた。ガスコアン大尉に段々かう云ふ事が判つた。夫は、ゼラール中尉と一緒に居ると云ふことは、常に彼の意志や欲求のお招伴をすると云ふことであつた」(『菊池寛全集 第2巻』高松市菊池寛記念館)

鹿島さん②
 
芥川龍之介(中央)と菊池

貧しさはバンカラの証明だった

 菊池寛の観察するところ、芥川にも佐野にもゼラール中尉的なところがあったのだろう。「両方の才気がうまく調和しなかった」のは当然なのである。

 では、芥川と袂を分かった佐野は次に誰と友人になったのか?

 選ばれたのはなんと菊池寛その人だったのである。

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source : 文藝春秋 2022年5月号

genre : ライフ 読書 歴史