母との死別、娘の夭折、2度の脳梗塞。なぜ辞世の句を遺さなかったのか。
大谷さん
辞世を詠むことは不自然
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
やれ打つな蝿が手をすり足をする
雪とけて村一ぱいの子ども哉
痩蛙まけるな一茶是に有
これらは小林一茶(1763~1827)の代表的な句です。朗らかで温かみのある作品は日本のみならず、世界各国でも翻訳され、愛誦されています。
ところが一茶は辞世の句を遺していません。これは異例のことです。かつて日本には辞世を詠む習慣がありました。江戸時代にはプロの俳人、歌人だけでなく、為政者から名もなき庶民まで、あらゆる層の人々が辞世の句や歌を残しています。
たとえば芭蕉と蕪村はそれぞれ次のような辞世の句を詠んでいます。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
しら梅にあくる夜ばかりとなりにけり 蕪村
旅に生き、志半ばに51歳で亡くなった芭蕉、絵師としても活躍し、高雅な境地を目指した蕪村、辞世の句には、その人生や作風がよくあらわれています。
明治時代に活躍した正岡子規も辞世の句を遺しており、絶筆三句とよばれています。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとゝひのへちまの水も取らざりき
子規は21歳で肺結核に罹り、その後、脊椎カリエスを発症。晩年の3年間は寝たきりとなりますが、最後まで句作と俳句革新に励み、34歳の若さで亡くなります。この辞世は、その劇的な人生と、悲壮な最期をより強く印象づけました。
このように辞世を詠むことは、人生の総決算であり、俳人としての最後の大きな見せ場でした。多くの場合、それにふさわしい句が前もって用意されました。
しかし一茶は辞世を詠みませんでした。
なぜなら一茶にとって、辞世を詠むことは「わざくれ」、意味のない飾りごとであり、不自然なことだったのです。前もって辞世を用意するのは自らの死に際を飾り立てることであり、生きることを諦めることだと考えていたように見えます。一茶には他の俳人たちとは違う何かがあったのです。
小林一茶の肖像(村松春甫画)
老いを生きる難しさ
「死に方ってのは、生き方です」とは、永六輔さんのベストセラー『大往生』(岩波新書)の一節ですが、過去の俳人たちの辞世の句をみても、その死に方には、生き方があらわれるものだと了解できます。
今、わたしたちは人生百年時代を迎え、「長すぎる余生」とどのように向きあい、どう暮らしていけばよいかという大きな問題に直面しています。健康で円満に長生きできればよいですが、誰もがみな、そのように生きることができるわけではありません。
現在、俳句人口は500万人とも、それ以上とも言われていますが、大半が高齢の方です。筆者が俳句結社「古志」の主宰に就任したのは、今からおよそ10年前のことですが、当時、60代だった会員の方々が、今では70代になり、70代だった方々は、いまや80代です。体力や気力の衰え、あるいは経済上の問題から、大好きな俳句をやめざるを得なくなってしまう方が少なくありません。人生の最後まで元気に自分らしく好きなことに打ち込むことができる人は限られてくるのです。
ひるがえって、一茶は最後まで俳句に邁進しました。65歳まで生きたので、当時としては長寿をまっとうしたといえます。現代の年齢に換算すると90歳以上まで生きたといえるのではないでしょうか。
しかし、一茶の長い人生は、けっして順風満帆なものではなく、最後まで苦難の連続でした。
たとえば病です。一茶は2度、脳梗塞で倒れます。1度目は58歳のときで、一時は半身不随になってしまいますが、奇跡的に回復しました。そのときに詠んだ句です。
ことしから丸儲ぞよ娑婆遊び
「娑婆」とは「苦しみが多い現世」、つまり生き難い世の中という意味の仏教用語です。いろいろ不自由なことはあるけれども、命があるだけで十分。「生きてるだけで丸儲け」の気持ちで楽しく生きていこう。この句にはそうした前向きな決意がこめられています。
2度目の脳梗塞発症の際には、言語障害が残ってしまいます。それでも一茶は俳句に邁進しました。竹駕籠に乗って弟子たちの家を巡り続けたといいます。
筆者が『楽しい孤独 小林一茶はなぜ辞世の句を詠まなかったのか』という本を執筆した動機は、どんな不幸に見舞われようとも、めげなかった一茶の生き様が、筆者自身を含め、多くの人に生きる力を与えてくれるものだと思ったからです。なぜ一茶は最後まで前向きに生きることができたのでしょうか。その人生を見ていきましょう。
3歳のときに母をなくす
1763年(宝暦13)、一茶は信濃国柏原(現・長野県上水内郡信濃町柏原)の本百姓(自作農)の小林家に長男として誕生します。名は弥太郎。勤勉であった父・弥五兵衛は田畑を地道に殖やしていったので、小林家の暮らしぶりは柏原の中では平均よりも少し良いものでした。
ところが3歳の時、母が亡くなります。一茶にとって、これが最初の苦難でした。母親がいないことで他の子にいじめられた一茶は、畑に積まれた木や萱の陰にひとり隠れて一日を過ごしたといいます。
我と来て遊べや親のない雀
この句は、この頃のことを思い返して詠んだものです。
一茶が8歳のとき父が再婚し、やがて異母弟が誕生しますが、さらなる苦難を抱えてしまいます。継母からの虐待が始まったのです。
そして15歳の春、一茶は江戸へ奉公に出されます。当時は、よほど貧しい家でなければ、跡継ぎである長男が奉公に出されることはありませんでした。継母は自分が生んだ息子に継がせたかったのでしょう。一茶は邪魔者だったのです。
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