ウクライナ戦争への視座を与える
ロシア語会議通訳で、エッセイスト、小説家だった米原万里氏(1950年4月29日~2006年5月25日)が亡くなってから16年が過ぎた。米原氏の作品は、現在も多くの人々に読み継がれている。その中で、第33回大宅壮一ノンフィクション賞(2002年)を受賞した『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を取り上げたい。
日本共産党幹部の長女だった米原氏は、小学校3年から中学2年(1959~64年)までチェコスロバキア(当時)の首都プラハにあったソビエト学校で学んだ。そのときに親しかった3人の少女の人生を扱ったのがこの作品だ。タイトルにもなっているアーニャはルーマニア共産党幹部の娘だ。リッツアは共産党が禁止されているので亡命生活を余儀なくされているギリシア共産党活動家の娘、ヤスミンカはソ連型共産主義とは一線を画したユーゴスラビア共産主義者同盟幹部の娘だ。
ところで、今年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は世界を震撼させた。現在、世界は第三次世界大戦勃発に怯えている。その関連で日本の情報空間に歪みが生じている。誰もが1日も早くウクライナがロシアの侵略者を撃退し、平和を回復して欲しいと思うために、無意識のうちに情報の選択をしている。ウクライナにとって有利な情報は腹に落ちるが、そうでない情報は偽情報や歪曲された情報であると判断し、遠ざけてしまう。新聞やテレビではロシア発の情報は、読者や視聴者が抵抗を覚えるので、ほとんど報道されないか、ロシアによる情報操作だという解説付で報道される。
評者はロシア語を解するので、ロシアの新聞、テレビもウオッチしている。その中には露骨な情報操作もあれば、真実を報じたものもある。情報は「ロシア発だから信用できない」と入り口で遮断するのではなく、自ら精査することが重要だ。この点で本書の最終章「白い都のヤスミンカ」から多くを学ぶことができる。
メディアに流されない
米原氏は、マスメディアの風潮に流されず、自分をはっきり主張することのできた優れた知識人だった。ユーゴスラビアの多民族戦争について、米原氏は当時、欧米や日本のメディアで主流だった「セルビア悪玉論」とは一線を画していた。少し長くなるが、文脈が重要なので正確に引用しておく。
〈ボスニア・ヘルツェゴビナはハプスブルグ朝、オスマン朝両勢力の角逐の場であったせいもあって、このカトリック、東方正教、イスラム三つの文明が複雑に入り乱れている。しかも旧ユーゴにあって「南北」格差が極端に拡大するなかで、経済先進地域とカトリック圏、後進地域と正教圏がほぼ完全にオーバーラップしていた。つまり、旧「東」においてさらなる東西分裂が進んでいたのだ。それが最も熾烈な形で表れたのがユーゴ多民族戦争なのかもしれない。/この矛盾を背景に、容貌上の特徴も言語も双子のように相似形の、宗教だけを異にするカトリックのクロアチア人勢力と正教のセルビア人勢力の対立を主軸とし、それにボスニア・ムスリム勢力が巻き込まれた形で今回の戦争は展開した。各勢力とも優劣つけがたい残虐非道を発揮した。ロシア語が理解できる私には、西側一般に流される情報とは異なる、ロシア経由の報道に接する機会がある。だから、「強制収容所」も「集団レイプ」も各勢力においてあったことを知っている。/にも拘わらず、セルビア人勢力のそれだけが衝撃的なニュースとなって世界を駆けめぐり強固な「セルビア悪玉論」を作り上げてしまった。NATOの三千数百回以上もの空爆の対象とされたのもひとりセルビア人勢力のみであったし、EUと国連の制裁にはセルビアの後ろ盾として新ユーゴ連邦まで対象とされてしまった。/この一方的な情報操作のプロセスは今後丹念に検証されるべきだろうが、気になるのは、ユーゴ戦争の両主役の敵味方の露骨なほど明確な宗教的色分けが見て取れるということだ。EUでセルビア制裁に反対したのが東方正教を国教とするギリシャだけであることひとつ見てもそうだ。正教国ロシアが心情的にセルビア派ながらそれを強く打ち出せなかったのは、西側の対ロ支援打ち切りを恐れたからだ。そして現代世界の宗教地図を一目するならば、国際世論形成は圧倒的に正教よりもカトリック・プロテスタント連合に有利なことが瞭然とする〉
ウクライナ戦争で、ロシア軍人はウクライナ人に対して、虐殺、暴行を含む様々な非人道的行為を行っている。ウクライナの軍人や民兵もロシア人、親ロシア派と目されたウクライナ人に対する殺害、暴行などのさまざまな非人道的行為を行っている。この現実を冷徹に踏まえることが重要だ。
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