霞が関支配を目論む官邸。そして茂木は火中の栗を拾わされるのか?
滲み出る安倍の苛立ち
参院選を前に、政界は「凪」が続いている。だが、一見穏やかに見えるその水面下では、権力の濁流が渦巻く。
6月16日の昼下がり、通い慣れた衆院第1議員会館の12階で、首相の岸田文雄の表情が一変した。場所は自らの事務所ではなく、同じフロアにある元首相の安倍晋三の部屋だ。防衛費の今後について意見交換した後、安倍が唐突に切り出した。
「ところで防衛事務次官の島田和久さんは交代するの?」。安倍はいつもの早口で、島田がいかに有能かを淀みなく語ったが、言葉の端々には安倍の苛立ちが滲み出た。凍りついた岸田は「明日の閣議で決定することになっています」と返すのが精一杯だった。
岸田の言葉通り、翌17日の閣議で島田が退任し後任に防衛装備庁長官の鈴木敦夫が7月1日付で就任する人事が決定された。ただ自民党最大派閥の長であり、政権の後見役でもある安倍の静かな怒気に接した岸田が慌てたのは言うまでもない。岸田は周辺に安倍の怒りの程度を探るよう指示した。
これを受けて、島田が安倍に工作したと勘ぐったのが官房副長官の栗生俊一だった。霞が関人事を差配する内閣人事局長を兼務する栗生はさっそく島田に電話し「君が引き続きこの界隈で仕事したいなら、余計なことはしない方がいい」と釘を刺す一幕もあった。
安倍が島田に執心するのは理由がある。島田は6年半もの間、首相秘書官として安倍に仕え、その後も防衛費のGDP比2%以上の旗振り役を担うなど、安倍の防衛政策のブレーンを務めてきた。年末には外交・防衛政策の長期指針「国家安全保障戦略」など安保関連3文書の改定も控える。こうした中、安倍は島田を介して安保政策の主導権を取ろうとしたのだ。
安倍の実弟、岸信夫防衛相も5月の段階で島田留任を前提とした人事案を官邸に打診していた。だが官邸サイドは「次官は2年での交代が慣例」と却下。防衛省内にも4年余り事務次官を務めた守屋武昌が退任後に収賄で立件された苦い記憶があり、島田の長期在任を忌避するきらいもあった。
にもかかわらず、安倍は岸田との会談後も「島田はもう1年やるのは既定路線だった。装備庁長官なんて上がりポストだろ。恣意的な人事をやれば政権の歯車がおかしくなる」と周囲に語るなど怒りが収まらない。政府の経済財政運営の基本方針「骨太の方針」を巡る岸田官邸と安倍の攻防を念頭に「骨太の意趣返しかな」とまで言い出す始末だ。骨太では安倍の「圧力」(財務省幹部)で政府原案にあった財政健全化の表現が弱められ、防衛力強化を巡っても「5年以内に抜本的に強化する」と明記。脚注にあったNATO加盟国が掲げるGDP比2%以上とする目標も本文に挿入された。
ただ安倍は周囲には「岸田さんと会った際には、島田の件は話題にしていない。もう決まっていたんだから」とシラを切る。無理もない。安倍こそ省庁幹部を一元管理する内閣人事局を2014年に立ち上げ、官邸主導を強めたからだ。人事局幹部も「首相経験者として、官僚人事に口を挟むことに躊躇があったのだろう」と推し測る。
それでも安倍の怒りに乗じて「安倍外しの始まりだ」「『大宏池会』構想の一環だ」と安倍周辺が声を上げる。そのため党内亀裂を危惧した副総裁の麻生太郎は安倍と連絡をとり「俺も聞いていなかった。今後は岸田に事前にしっかり根回しをするように伝えておく」と宥めざるを得なかった。
次官級起用で霞が関を掌握
安倍周辺らの指摘は当たらずとも遠からずだ。だが岸田の真の狙いは「安倍外し」というよりも、「官邸による『霞が関統治』の確立」(首相周辺)にほかならない。この夏の各省庁人事では、財務省主計局長の茶谷栄治の次官昇格を筆頭に順当に見えるが、目を凝らすとその思惑が透けてくる。
総務省では予想に反して旧総務庁出身で総務審議官の山下哲夫が次官に就いた。同省は旧自治省出身者か旧郵政省出身者が次官になる例が大半だ。総務省は前首相の菅義偉の「植民地」(総務省幹部)で、旧自治・郵政の幹部はとくに菅カラーが強い。そこからの脱却を図ったのは間違いない。
厚生労働省はより官邸の意図が鮮明だ。保険局長の濵谷浩樹らが取り沙汰されたが、政策統括官の大島一博が次官を射止めた。大島は「全世代型社会保障」の構築本部の事務局長も務めており、首相秘書官の嶋田隆や宇波弘貴らと関係がよい。厚労担当主計官経験者で厚労行政に精通する宇波は財務省に戻る案もあったが、自ら秘書官に残留する道を選んだ。まさに官邸主導で参院選後の全世代型社会保障の実現に取り組む意思を示したのだ。
いみじくも政権発足直前、政務秘書官に内定していた嶋田は周囲に「今度の政権は官邸に次官級を集めて、真っ当な官邸主導にする」と漏らしていた。岸田官邸には経済産業次官だった嶋田のほか、警察庁長官だった栗生、首相補佐官に元国土交通次官の森昌文、国家安全保障局長には秋葉剛男前外務次官が控える。彼らを支える事務の首相秘書官には、中堅が多かった菅政権とは異なり局長級が名を連ねる。
岸田の最側近で官房副長官の木原誠二も「官邸に次官経験者が多い。歴史上極めてまれなことだ」と胸を張る。防衛省人事でも、霞が関トップ経験者らによる官邸主導を後押しすべく、木原が島田交代を主張したとされる。
カット・所ゆきよし
弱点は「政局」へのケア
だがここに岸田官邸の陥穽がある。嶋田らは「政局はバッジがするものだ」として距離を置き、純粋に政策を優先しがちだ。6月10日にシンガポールで開かれたアジア安全保障会議や、同月29日からマドリードで行われたNATO首脳会議への出席を巡っても、参院選が目前にもかかわらず、嶋田や木原らは「国際社会に日本の存在感を示すいい機会だ」と外遊優先を岸田に進言した。自民党選対幹部らの「外交は票にならない。支持率が高い首相が地方を回る方が選挙にプラスだ」との意見は顧みられなかった。
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source : 文藝春秋 2022年8月号