石川達三氏は、「金環蝕」と書かれたとびらの横に〈まわりは金色の栄光に輝いて見えるが、中の方は真黒に腐っている。〉というキャプションをつけた。政界汚職を扱った古典的な作品だ。1966年に「サンデー毎日」に連載され、同年、新潮社から単行本として刊行された。
〈五月日に、政府与党であるところの民政党は、党の総裁選挙をおこなった。現職の総理大臣である寺田総裁と、別に党内に大勢力を持つ酒井和明氏との総裁争いは、表面にはさほどの姿を見せなかったが、裏面の暗躍は醜態をきわめた。一説には政界はじまって以来の汚い選挙とまで言われた。買収、饗応、自派の党員の罐詰め、裏切り、逆宣伝、等々。ありとあらゆる悪智恵の智恵くらべのようでもあった。一つの権力の座を二人が争うとき、彼等は最大の弱点をさらけ出す。その弱点につけ込んで自分を有利にしようとする慾深い連中は、二人の総裁候補者を利用するだけ利用し、取れるだけ取り、将来のための言質を要求し、数百人の党員から成る権勢慾と物慾との巨大な渦巻きをつくっていた。/その間、寺田総裁が買収その他に使ったかねが十五億と言われ十八億とも言われた。酒井派も同じく十七億から二十億と噂されていた。〉
選挙結果は現職の寺田政臣の再選となったが、寺田派は、業界からの政治献金や銀行からの借り入れだけでは資金を賄うことができず、党資金からも数億円を流用していた。これを返還するために、九州の大型ダム建設を利用して政権中枢と電力会社とゼネコンが談合によって資金を捻出する。しかし寺田首相は再選後4カ月で病に倒れ、権力は酒井が引き継ぐ。汚職を解明しようとした与党政治家、業界紙記者、フィクサーなども腐敗しており、結局、真相はうやむやになるという筋書きだ。
この小説を通じて石川氏が告発したのは、日本の官僚と民衆の関係だ。
〈官僚は民衆を信じていない。民衆とは、何か事あるごとに、あれこれと理由をつけて、官庁からかねを取ろうとする悪人の群だと思っていた。たとえば水没地区にわざわざ住み付いてしまう渡り鳥のような連中である。官僚の特色は警戒心だった。民衆にだまされてはならないという猜疑心だった。同時にそれが保身の術でもあった。/民衆は民衆で、官僚を信じていない。官僚というやつはすべて嘘つきで無責任で、責任のなすりあいをして、責任者が転々と変ってしまうので、つかまえどころの無い化けものだと思っていた。長いものには巻かれろという諺がある。昔はその長いものは殿様だった。いまは官僚である。官僚相手の交渉では、ほとんどすべて民衆の泣き寝入りに終る。〉
この状況は、『金環蝕』が書かれてから50年以上経った今日でも基本的に変化していないと思う。
首相夫人の容喙
筆者は中堅の外務官僚に過ぎなかったが、北方領土交渉に関与していた関係で、首相官邸や自民党本部の様子について間近で観察する機会を得た。そこでは、フィクサー、政治部記者、業界紙記者、学者、芸者、料亭の下足番、政治家の夫人など、選挙によって当選したわけでも国家公務員試験に合格したわけでもないのに、現実の政治に無視できない影響を与えている人々がいることを目の当たりにした。そのあたりの様子がこの小説では見事に描かれている。特に首相夫人の寺田峯子の容喙だ。首相官邸に勤務する下級事務官の西尾貞一郎・官房長官秘書官が、電力建設会社の財部賢三総裁に官房長官のメッセージを伝えにいったときの出来事が印象的だ。
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source : 文藝春秋 2017年05月号