企業インテリジェンス小説の嚆矢/『黒の試走車』梶山季之

ベストセラーで読む日本の近現代史 第43回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
エンタメ 読書

 インテリジェンスとは、国家が生き残るために情報を収集、分析し、さらに情報分析に基づいてさまざまな働きかけをすることを意味する。旧陸軍参謀本部は、インテリジェンスを「秘密戦」と称した。そして、秘密戦を諜報、防諜、宣伝、謀略の4つに区分した。

(積極)諜報(ポジティブ・インテリジェンス)とは、相手に察知されずに相手が秘匿する情報を入手することだ。防諜(カウンター・インテリジェンス)は、敵対組織に情報を取られないようにすることだ。もっともその場合、防御一辺倒ではなく、あえて敵に偽情報を流して攪乱させる積極防諜(ポジティブ・カウンター・インテリジェンス)という応用技法もある。さらにわが方に不利な事柄を隠し、有利な事柄を誇大に伝えるのが宣伝(プロパガンダ)だ。相手にとって不都合な情報を積極的に流すことも宣伝戦ではよく行われる。そして、諜報、防諜、宣伝を用いて、わが方に実力以上の成果をもたらすようにすることが謀略(コンスピラシー)だ。陸軍の参謀本部や中野学校(インテリジェンスの専門組織)は、秘密戦の目的は謀略と考えた。CIA(米中央情報局)、SVR(露対外諜報庁)、モサド(イスラエル諜報特務庁)などの優秀な機関も、公言はしないものの、インテリジェンスについては日本陸軍と同じような認識をしている。ちなみにインテリジェンス活動のうち法に抵触する内容のものをスパイ活動と呼ぶ。

 梶山季之氏が光文社から1962年に『黒の試走車』を公刊した時点では、戦前・戦中に日本が行ったインテリジェンス活動は全否定されていた。しかし、そのノウハウは民間には生きていた。モータリゼーションが本格化する60年代の日本社会を背景に、梶山氏は、タイガー自動車、ナゴヤ自動車、不二自動車などの自動車会社が繰り広げる企業インテリジェンス戦争(そこには違法なスパイ活動も含まれる)を見事なエンターテイメント小説に仕上げている。

 筋書き自体は単純だ。タイガー自動車の新車パイオニア・デラックスが東海道本線の掛川駅と袋井駅間の無人踏切で特急列車と衝突事故を起こす。自動車の運転手は、踏切の真ん中でエンジンが突然止まったと主張し、タイガー自動車からカネをせしめようとする。その背後で、ライバル会社の陰謀、タイガー自動車内部の権力闘争があり、業界紙記者や謎の美人女社長、バーの女性などが暗躍する。読者から楽しみを奪ってはいけないので紹介を差し控えるが、小説の最終局面でいくつかのどんでん返しが起きる。このあたりはエンターテイメント作家として当時、超売れっ子だった梶山氏にしか書けなかったであろう独特な筆の勢いがある。

読唇術と病室の盗聴

 本書には、インテリジェンスの現場で実際に用いられている様々な情報収集の技法が披露されている。例えば、読唇術だ。タイガー自動車で企画PR室長というカヴァー(偽装)で活躍する朝比奈豊には天性のインテリジェンス能力がある。

〈朝比奈は、この読唇術というアイディアをさらに発展させて、ナゴヤの重役会議の模様をフィルムに撮影し、聾唖学校の教師に解読してもらったら、会議の内容が手にとるようにわかるのではないかと、考えついたのであった。/M生命ビル五階のホールの小窓は、国際ホテルの会議室を覗くためには絶好の位置にあった。したがって会議の開始された午後一時から三時までの時間、あいていたホールを無断借用する必要があったのだ。/――翌日の朝、朝比奈と川江は、板橋区にある聾唖学校で落ち合った。解読を依頼してあった人の教師は、映写機と暗幕とを用意して待っていてくれた。/電灯が消されると、部屋の中は真っ暗になり、壁の小さなスクリーンに、一筋の光線が走った。映し出されたのは、ナゴヤの堀専務である。写真は、素人にしては上出来なほど、よく撮れていた。/口がすぐ大写しになると、二人の教師が、スクリーンを注視して翻訳――その唇の動きを読みはじめる。/「ええ……じつは、さくじつ、たいがーのすぽーつ・かーのかかくが、けっていされたという、じょうほうがはいっとります……ざんねんながら、まだ、たしかなすうじはわかっとりませんが……ひゃくまんえんをしたまわる、きゅうじゅうきゅうまん、ごせんえんというすうじが、わたしのてもとにとどいております……」/二人の教師の解読ぶりは、学校長が折り紙をつけただけあって、澱みもなく正確だった。〉

 この読唇術を用いるインテリジェンスは、北朝鮮情勢の分析でよく用いられる。金正日や金正恩が視察をし、人々に何か話しかけている動画が北朝鮮のテレビに映されるが、音声が消されている場合がある。そういうときには、読唇術の専門家が、動画を見て金正日や金正恩の発言を再現する。この種の情報は貴重な1次資料になる。

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source : 文藝春秋 2017年04月号

genre : エンタメ 読書