人間の心の闇を描く能力では、田辺聖子氏が傑出している。第50回芥川賞(1963年下半期)を受賞した『感傷旅行』は、田辺氏が35歳のときの作品だが、人生体験を深く積んだ人の洞察力がある。
筋書き自体は、複雑でない。舞台は大阪だ。放送作家として、そこそこ成功している37歳の森有以子(ゆいこ)は不毛な恋愛を重ねている。その経緯を22歳の放送作家のぼく(ヒロシ)が物語るという形態だ。
有以子の今回の恋人は、関東出身、共産党員の鉄道労働者ケイだ。有以子は、共産党の文献を読み、党の集会に参加して、ケイの関心を惹こうとする。もっとも、共産党中央機関紙の「アカハタ」を「赤ハト」と呼んでいるような有以子は本質においてノンポリだ。2人は婚約するが、破局が訪れる。失恋について有以子はヒロシの部屋を訪れ相談するが、成り行きで体の関係を持つ。2人で奈良に旅行に出ようとするが、有以子の手料理のクリームスープを飲んでいるときに、放送局から電話がかかってくる。ヒロシは仕事を優先し、旅行は無期延期になる。
有以子の失恋話の中に、時代状況が見事に表現されている。まず過剰な正義を党員のケイに語らせることで、この党の異常さが浮き彫りになるようにしている。
〈「おれはね」ケイはほとんど大声でののしった、「党員だぞ。おれは党のために死ぬ。それは、おれはいかにも下っぱ党員だ。けれどもよ、おれは党のためにいつでも死ぬほど党を愛してる。だから、おれはきみを幸福にできねえ。きみを愛しもせん。なぜなら、きみはマルクスレーニンに縁がねえからだ。きみは今の腐った資本主義社会に難なくすべりこめる人間だ。おれのうしろへついてこられる人間じゃねえ。おれは大衆のために働かなきゃならねえ。きみにはひとにぎりのファンがあるかもしれねえが、おれには数千万の大衆がまってるんだ」/「あら、ケイ……あたしも大衆のひとりじゃないの、ひとりの人間も救われないような人が、数千万の大衆が救えるの?」/と有以子がつぶやくと、ケイはちょっとひるんで、/「そりゃそうだ……」といい、最後のウイスキーの一杯をのんだ、それから、ずるずると彼女のそばへ寄って、頬に触れた。ぼくはそのとき、のたりと笑ったケイの頬に、女好きなだらしない隈を(それはかれの過去の女関係を暗示させる)発見してはっとした。(中略)/「そんなおれについてくるなら、きみも革命のイメージを持つべきじゃねえか!」そして、一瞬おとなしくきいた、「おれが死刑になったらどうする」/「殉死するわ」/「ウソつけ!」〉
ここで共産党と大日本帝国を入れ替えてみよう。ケイの思考様式は、ファナティックな帝国軍人とほとんど変わりない。命がけで組織に忠誠を誓う人間のグロテスクさが見事に表現されている。さらに1963年時点で、共産党が唯一の前衛党でないという異議申し立てが左翼内部でもなされていた。そのことを田辺氏は、有以子がヒロシに電話で尋ねた〈トロツキストて、何をする人だか教えてよ〉という言葉に潜り込ませている。ここでヒロシが、「トロツキストは、スターリンと対立したロシアの革命家レフ・トロツキーを信奉する人で……」などという説明をしてしまうと、『感傷旅行』が政治小説になってしまう。それだから、田辺氏はヒロシには政治問題に関する発言を一切させない。そうすることで共産党員という政治的な題材を取り上げつつも、小説が政治化してしまうことを避けているのだ。
インテリ崩れの男の悲哀
ケイは、有以子に対しては、学識もなければ女にはうぶな労働者を装っている。しかし、実態は異なっていた。それが、ケイが有以子のアパートを出たときに残していった手紙に現れている。有以子は、この置き手紙をヒロシに見せる。
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source : 文藝春秋 2017年06月号