個人的な強さは項羽が上、なのに劉邦が天下を取れたのはなぜか
劉邦という人物を書くということに、私にはずっと恐れのようなものがありました。司馬遷の『史記』などの史料から浮かびあがってくる劉邦像とは、平凡でだらしない姿ばかりです。思想と行動にもわかりにくい部分が多い。特に不誠実なところがひっかかった。ですから、彼をそのまま描いても「なんだ。この程度の人間か」と思われてしまい、小説としては面白いものにはなりません。
これまで描いてきた歴史上の人物とは違い、必ずしも好きな人物とはいえませんでした。ただし、中国の歴史小説を生業にしている人間として、いつかは劉邦を書かねばならないとも思っていました。常に頭の片隅で「劉邦とは、一体、何者か」と考えながら過ごしてきたともいえます。
やがて「オール讀物」に『楚漢名臣列伝』を書くことになりました。劉邦の周辺にいた人物、あるいは敵対した人物をきちんと見直すことは、劉邦を考える上で参考になると思い、すすんで筆を執(と)ったのです。
そういう覚悟で、史料を読む中で、劉邦は時代が選んだ男であり、天下の輿望(よぼう)を背負って生きたのだ、ということが見えてきました。
秦王朝の末期には、劉邦のみならず、多くの英雄が生まれました。進路に迷う人々は自分の夢や将来を「この人に託そう」と考えて、それぞれが選んだ英雄に期待を寄せました。そして、最後に最も多くの期待を集めた英雄が劉邦だったのです。
私は、個人の才能や徳ではなく、天下の人々が劉邦に託した意望の強さと多様性を書くことで、より多面的で複雑な劉邦像を描けるのではないか、と考えたのです。
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source : 文藝春秋