作家が上り調子にあるとき
江口渙の私信で「恩を返す話」を激賛された菊池寛は、さらに、江口から直接、「屋上の狂人」や「父帰る」を「名作」として高く評価されて、すっかり自信を取り戻した。そして、大正6年の秋口からは怒濤の進撃が始まったのである。
すなわち、11月には江口の紹介で「中学世界」に「第一人者」を書くと、同月に「ある敵打(かたきうち)の話」(「大学評論」)を発表し、12月には「群衆」(「雄弁」)と、佳作短編を連発し、大正7年1月には江口が編集委員をつとめる「帝国文学」に「悪魔の弟子」を、同じく1月に「暴君の心理」を「斯論(しろん)」に寄稿した。この間、戯曲を一つも書いていないが、それは江口から戯曲ではなく小説で行けと勧められたからである。
「その頃、僕の所へ初めて、小説を註文しに来た雑誌があった。それは、『斯論』と云う雑誌である。その記者は落合と云う人であった。私は『暴君の心理』と云う二十枚ばかりの小説を書いて、一枚五十銭の原稿料を貰(もら)った。この『暴君の心理』を改作したものが、『忠直卿行状記(ただなおきょうぎょうじょうき)』である。
私に、最初の原稿料をくれた人として、この落合と云う人は忘れられない人である」(『半自叙伝』)
最初に注文を受けて原稿料をもらった雑誌というのはどんな物書きにとっても印象深いもので、雑誌名や編集者のこともよく覚えている。しかし、より強く記憶に残るのは自作を最初に褒めてくれた月評子や書評家のことだろう。
「これ(『悪魔の弟子』)を賞(ほ)めてくれた人は、本間久雄(ほんまひさお)氏だった。文壇的に初めて私を認めてくれた人として、私は長い間本間久雄氏を徳としていた。これから考えても、新進作家が、初めて相当な雑誌に発表した作品を、酷評することなどは、どんな怨(うら)みを買うことであるかが分ると思う」(同)
本間久雄は早稲田大学を出た英文学者・国文学者・批評家で、後に早稲田大学教授をつとめたが、大正7年には「早稲田文学」で文芸時評を担当していたので、菊池寛の「悪魔の弟子」もこの雑誌で賞賛したのだろう。
「悪魔の弟子」と同じ1月に「新公論」に発表した「ゼラール中尉」は、芥川龍之介にも賞賛された。「新思潮」同人の間では、作品の評価はいっさい仲間褒めなしという約束があったから、芥川の賞賛は菊池にとって最大の励ましとなった。芥川は「大学評論」11月号に載った「ある敵打の話」も褒めてくれたうえ、もっとよい雑誌に紹介しようといってくれた。
「芥川に、そう云われたことは心づよいことだった」(同)
このように、作家が上り調子にあるときには、書く作品がどれも力強く、しかも粒ぞろいだから、賞賛がさらなる賞賛を呼び込むことになる。長女・瑠美子が3月2日に生まれたことも菊池寛の執筆意欲を加速した。
「子供が出来てから、急に私は責任を感じ、生活も緊張したと思う。創作にも、一生懸命になったと思う。三月に、久米の紹介で、『文章世界』に『勲章を貰う話』を書いた。これは割合好評であった。ある女流作家(ハッキリ覚えていない)が、月評をやって賞めてくれた」(同)
一生の恩人を失う
だが、3月には、人生の痛恨事ともいえる悲しい出来事も起こる。22日、母親以上に慕っていた大恩人・成瀬峰子が尿毒症のために急逝したのである。
このときのことは、「新潮」6月号に発表された「大島が出来る話」に詳しく描かれている。菊池寛はこの頃、小石川区武島町に引っ越していたが、隣家に故・国木田独歩の遺族が住んでいて、独歩の遺児の兄弟がよく遊びに来ていた。その日も、兄弟がピンポンをしようと誘ったので、菊池は雨戸を一枚外して卓球台の代わりに使い、ゲームを楽しんでいた。そこに電話郵便が届いたのである。成瀬峰子の死を告げる電報であった。
「譲吉[菊池寛]は、電車に乗つた。が、彼は先刻(さっき)からの涙が、まだ続いて居た。三十に近い男が、電車の中で泣いて居る事は、決してよい外観を呈する訳ではなかつた。で、彼は窓から外を見るやうな風をして、涙を時々拭つて居た」(「大島が出来る話」)
市電の中で、夫人から受けた数々の恩と愛情が思い出されてきた。菊池寛は夫人の三回忌に自ら著した小伝「至誠院夫人の面影」の跋文でその恩を列挙している。
「月々に学資送金の面倒を取られたのも夫人である。寒暑に著(原文ママ)るべき衣服の心配をして下さつたのも夫人である。学業を了へ社会に出づる時、洋服の心配をして下さつたのも夫人である。結婚をする時、その費用と礼服の心配をして下さつたのも夫人である。初て、東京に家を持ちたる日、炊事の用具整はず、夫妻空腹を抱へて、薄暮に及んだ時、思ひがけなくも、弁当と必要なる日用品とを贈られたのも夫人である。余に対する夫人が最後の恩恵は、その逝去前、余が女児の為に購はれた産衣であつた」
なお「大島が出来る話」のタイトルは、この最後の贈り物の後、形見分けとして夫人の遺族から大島絣の女物の羽織と着物が贈られてきたことにちなんでいる。すなわち、小説は、妻がこの形見分けの羽織と着物からなら、夫の欲しがっていた大島絣の揃いを仕立て直し出来ると言うのを聞いて、夫が複雑な感情に襲われるところで終わるのである。
「譲吉も、自分達の望んで居た、大島が出来た事に、多少の満足を、感ぜぬ訳には行かなかつた。が、一生の恩人である、近藤夫人を失ふて、大島の揃を得た譲吉の心は、彼の妻が想像して居る程、単純な明るいものとは、全く違つて居た」(同)
「中央公論」に書くこと
「新潮」に載った「大島が出来る話」は同じ6月に「新時代」に発表された「若杉裁判長」とともに好評をもって迎えられた。菊池寛は『半自叙伝』で「この頃の私は、新進作家として旭日昇天(きょくじつしょうてん)の形で、世の中に出て行った」と、なんのてらいもなく書いているが、しかし、「名声の相場」から見るとまだ決定的なものが欠けていた。文芸雑誌の雄「中央公論」からの執筆依頼が来ていなかったのだ。この頃、新進作家にとって、名伯楽である主幹・瀧田樗蔭(たきたちょいん)に才能を見いだされて「中央公論」に登場することは、文壇で名声を確立するに等しかった。瀧田樗蔭は黒塗りの人力車で作家の家を直接訪問して原稿を依頼することで有名だったので、新進作家たちはこの黒塗りの人力車がいつか自宅の前に止まることを夢見て執筆に勤しんでいたのである。
「[榎町の自宅は]半間位の入口をはいった路次裏(ろじうら)であった。あるとき、時事新報社から帰って来ると、その路次の入口に、自家用の人力車が止っていた。その頃の自家用人力車は現在の自家用自動車と、匹敵していると思う。私は、(ああ『中央公論』の滝田(たきた)氏だな)と直覚した。その頃の滝田氏の文壇に於(お)ける勢威は、ローマ法王の半分位はあったと思う。殊(こと)に、その自家用の人力車は有名であった。私は、家へ入って見ると、滝田氏ではなかったが、滝田氏の命を受けた高野敬録氏であった。この頃、『中央公論』へ書くことは、中堅作家としての登録をすますようなものだったから、私はこのときの嬉(うれ)しさを今でも忘れない」(『半自叙伝』)
文壇的位置の確立
このとき、ちょうど菊池寛の手元には「黒潮」という廃刊になった文芸雑誌に寄稿した力作「無名作家の日記」が残っていた。そこで、この原稿をそのまま高野敬録に渡した。それを瀧田樗蔭が読んで、山野という登場人物は芥川龍之介ではないかと疑い、心配して芥川当人に問い合わせたと菊池寛は書いている。しかし、芥川は「無名作家」の登場人物たちが充分にフィクション化され、無名作家の「俺」も戯画化が徹底していると判断したらしく、まったく問題としなかった。
「無名作家の日記」は、うるさ型の批評家である正宗白鳥も賞賛したので、気をよくした樗蔭は小石川中富坂3番地の一戸建に引っ越していた菊池寛を高野敬録とともに訪れ、本郷の燕楽軒に連れて行った。もちろん、「中央公論」への次作の執筆依頼も兼ねての接待だった。樗蔭は抜擢した作家が期待通りの作品を書き上げると、続けざまに原稿を注文する癖があったのである。
菊池寛は樗蔭の期待に充分すぎるほどに応えた。「中央公論」9月号に発表された「忠直卿行状記」は、今日読んでも紛れもない傑作と断言できる出来栄えだったからである。
「これは生田長江(いくたちょうこう)氏を初め、二、三の人が賞めてくれ、これに依って、私の文壇的位置は確立した観があった」(同)
「忠直卿行状記」は菊池寛自身が語っているように、この年の1月に「斯論」に書いた「暴君の心理」を書き直したものであるが、書き直しに当たっては、芥川や江口のサジェスチョンがあったようである。江口は『わが文学半生記』(青木文庫)で、この頃の田端の芥川の自宅が、友人たちが集まって文学議論を交わすサロンのような役割を果たしていたことを書き留めたあと、こう記している。
「だれかが自分の小説の構想のうまくまとまらないときなど、みんなのなかにそれをもち出していい智慧を借りたりした。菊池寛の『忠直卿行状記』なども、まえに、たしか一九一八年の一月号の何とかいう小さい雑誌に題名も人物も場所も、みんな別なものとして二十枚ほどの長さでかいた。ところがテーマがすぐれているので、もっと力を入れてかきなおしたらまるで見ちがえるものになるにちがいないといって私と芥川とでかきなおしをすすめた。その結果があのような、でき栄えのものになったのである」(『わが文学半生記』)
芥川との文学談義
事実、この頃、菊池寛は芥川と頻繁に会い、文学談義を交わして、固い友情を結んでいた。芥川は横須賀の海軍機関学校に英語教員として就職し、鎌倉に下宿していたが、週末には田端の自宅へ戻る途中、新橋で下車すると、南鍋町にあった「時事新報」の社屋を訪れ、菊池と歓談するのを常としていた。逆に菊池が芥川の自宅を訪れる機会も多かった。
この田端の芥川邸に頻繁に出入りしていたのが後の大衆作家・小島政二郎である。小島は明治27年に上野池之端の呉服店の次男として生まれ、慶応大学予科の講師となったが、芥川の「羅生門」に心酔して面会日の日曜日の常連となっていた。その回想録『眼中の人』にはその頃に出会った菊池寛の思い出が詳しく語られている。
「日曜日が、芥川龍之介の面会日だつた。私は、佐佐木茂索などと一緒にそこの定連だつた。
(中略)珍らしく客がなく、私の外には、菊池寛が来合はせてゐるきりだつた」
芥川が頭に浮かんだ俳句を次々に口にすると、小島はどれも説明的でダメだと批評した。すると、菊池寛が横合いから口を挟んで、「どうして説明ぢや悪いのかね?」と尋ねた。小島は馴染みの薄い菊池寛からいきなり詰問されてシドロモドロになった。すると菊池は「君は小説の上でも描写万能論らしいけれど、小説なんか描写ばかりでは絶対に書けないぢやないですか」と断言したので、小島は黙らざるを得なかった。悔しくなった小島は菊池の本を読んで馬鹿にしてやれと思い、出たばかりの処女作『心の王国』(小島は『恩を返す話』と誤記)を読み始めた。
「軽蔑してやれと思つてゐた最初の心構へはどこへやら、生きた人間を押さへて放さぬ真実さに、私は呼吸を喘がせながら引き込まれて行つた」
描写万能論者だった小島は、菊池の小説の愛読者にだけはなるまいと思ったが、読めば読むほど強く心を引かれ、自分の信念が崩れていく悲しさを感じざるをえなかった。
優れたタイトルとは
このように、大正7年から8年にかけての菊池寛は、「無名作家」として溜め込んでいたエネルギーがマグマのように噴出し、作品のことごとくが傑作・佳作となる最盛期を迎えていたのである。大正8年1月号の「新潮」の匿名批評欄「不同調」は「昨年の文壇は、佐藤春夫、菊池寛の二才人を文壇の高座にのぼせた」年として記憶さるべきと書いている。こんな上り調子が一つの頂点に達したのが大正8年1月に「中央公論」に発表した「恩讐の彼方に」である。
まず言えるのは「恩讐の彼方に」がタイトルとして圧倒的に優れていたことである。
タイトルとして優れているとは、いったい何なのだろう? 思うに、それはタイトルが説明でも要約でもなく、メタファー(隠喩)になっていることだろう。優れたタイトルは優れた作品のメタファーなのである。
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source : 文藝春秋 2022年11月号