性愛においてもウルトラ自由主義者だった
大正8(1919)年、大阪毎日新聞社に入社した菊池寛が連載した第1回作品は『藤十郎の恋』(4月3日〜13日)だった。第4次『新思潮』の創刊号のために書きながら芥川や久米の反対で没にされた15枚の同名の戯曲を中編小説に仕立て直したものである。
歌舞伎役者・坂田藤十郎が芸を磨くために好きでもない女性を誘惑するというテーマは「道徳と芸術(芸)の相克」という自身のヒューマン・インタレストの中核をなすものだったので、これを小説というかたちで蘇らせようとしたのだ。
大きな追い風となったのは大阪松竹の劇作家・大森痴雪(おおもりちせつ)が脚色したものが上方歌舞伎の名優・初代中村鴈治郎の主演(お梶役は中村福助)で劇化され、10月には大阪・浪花座で、12月には京都南座でそれぞれ上演されたのち、東京の歌舞伎座で2カ月のロング・ランを打ったことである。菊池寛は鴈治郎が藤十郎を演じた効果が大きかったとして『半自叙伝』でこう記している。
「その姿態は京阪歌舞伎の伝統を完全に備えて、江戸時代の遺宝と云ってもいい人である。それが、その大先輩たる藤十郎に扮するのであるから、その姿態一つで、『藤十郎の恋』は、舞台上で成功を博したのである」
ちなみに菊池寛は京都上演のさい、京大卒業以来初めて錦を飾り、京大学友会が主催した京大寄宿舎の会合で講演したが、この講演を梶井基次郎とともに聞いたのが中谷孝雄で、その著作『梶井基次郎』(筑摩書房)の中で菊池寛が「この作品[『藤十郎の恋』]は私として自信のあつたものだけに、これを没書にした二人に対しては、今なほ恨み骨髄に徹してゐます」と語ったと回想している。『半自叙伝』では「もちろん粗雑なものだったから、彼等の反対は当然であったかも知れない」としているが、やはり、没になったことに恨みを抱いていたのだ。なお、全集などに収録されている戯曲の『藤十郎の恋』は、その後、菊池寛自身が小説をもとに戯曲化したものである。
劇作家・菊池寛の名声
それはさておき、『藤十郎の恋』の成功は劇作家・菊池寛の存在を強く世間にアピールしたようで、処女作品集『心の王国』に収録されていた戯曲が次々に舞台化されることになった。なかでも、劇作家・菊池寛の名声を決定的なものにしたのは、翌大正9年10月に市川猿之助の劇団・春秋座が旗揚げ興行として新富座で「父帰る」を初演したことである。「新思潮」時代にはだれ一人として評価してくれなかった戯曲が、文名が上がるにつれ、日の目を見ることになったのだ。
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source : 文藝春秋 2022年12月号