著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、千住真理子さん(ヴァイオリニスト)です。
「私はプロの専業主婦なのよ」
母の口癖だった。私たち三兄妹や父の事、祖父母の世話や終末介護に加え私のレッスンや演奏会に同行する為、昼間だけでなく真夜中も寝ない母を私たちは「フクロウ」と呼んだ。冬でも半袖一枚で走り回る母、化粧っけの全くない人だった。
お稽古に通う時、繋いだ手が一緒にスキップのリズムを踏んでいたのを思い出す。母と2人で創り上げていく音楽の世界で実力を伸ばしコンクールに優勝し、ステージでの活動を広げていった。
しかし独立心が芽生えた10代の終り、私は母を疎ましく思うようになった。全てに反発して母を敵視する日々が始まった。バランスを崩した母娘の二人三脚、「綱渡りのような絶妙なバランスで成り立っていたのだ」と後に母は語った。当然、ソリストを張る特殊な緊張状態に集中出来ず20歳で挫折、自信をなくし弾けなくなり自暴自棄になった。母に暴言を吐く日々、言葉で母を傷つけ「もう帰ってくるな」という母の泣き叫ぶ声を背に、私は乱暴にドアを閉め、外に飛び出した。フラフラと街を歩き、友人と食事をし、ウィンドウショッピングでふと目に入った「母の日」ショップコーナー。
なあんだ、知らないわ、こんなの。
夜遅くそっと玄関を開けた私に母が声をかけた。
振り向くと目に入ってきたのは、テーブルに置かれたカレーライスとラッピングされた包み。無言で母はそのまま台所へ行った。「母の日」の華やいだラップを開けると、中にはステージで付けるヘア飾りが入っていた。途端目から溢れる涙が好物のカレーライスを濡らし、私は口一杯頬張りながらボロボロ泣いた。
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source : 文藝春秋 2021年1月号