複雑な味わいを持つ歴史小説
長き夜の遠の眠りのみな目覚め波乗り舟の音のよきかな
小説のタイトルは、この回文になった古い和歌からとられている。主人公の絵子は、村の外れに住むお婆から、よい初夢を見るまじないとしてこの歌を教わった。若いころ何をしていたかよくわからないお婆は、絵子の生まれた村では数少ない、外の世界を知る人だった。
歌に導かれるようにして、絵子という小舟は外の世界へと漂い出す。農家の次女として生まれた彼女は、相当な変わり者だ。働くことより本が好きで、「飢えた子どもが飯を求めるように、もっと、もっとと読もうとした」。弟にだけ、おかずに魚の干物がつくことや、勉強が許されることを当たり前とは思えない。こんな少女が生まれた土地で安穏に暮らせるはずもなく、父の激しい怒りを買って13の年に家を追い出されてしまう。そこからは「根無し草」の人生だ。旅館の下働きから、できたばかりの福井の人絹工場へ。不正な帳簿を覗く事件を起こし、やはりできてまもない百貨店に志願して働き口を得る。「お話が書けます」ととっさに口にして、食堂で働くかたわら、百貨店が始めた少女歌劇の脚本を書くことになるのだ。
作中でえびす屋となっているのは福井のだるま屋百貨店がモデルで、昭和6年から昭和11年まで少女歌劇部が活動した史実にもとづいて書かれている。大正天皇崩御から昭和の大恐慌、女工たちが参加する労働争議や、戦争へと突き進む時代の変化も、絵子の目に映るものとして克明に書き込まれる。
えびす屋で、絵子はひとりの魅力的な少年と知り合う。年の離れた兄と2人、旅芸人のようななりでえびす屋にやってきた清次郎は、すばらしい声と容貌、演技力で、えびす屋少女歌劇のスターになりおおせる。「キヨ」という名の女優として芝居の中で男役を演じても、観客に正体を気づかせない。そんな演じ手を得た絵子も、「鶴の恩返し」を裏返したような「はごろも」、さらに「遠の眠りの」という、女たちの声なき声をすくいあげた芝居を書き上げる。
絵子だけでなく、ポーランドの血をひく清次郎たち兄弟もまた「根無し草」であり、難民船に乗って敦賀の港にやってきた。このあたりの設定も、史実を踏まえているのが面白く、物語の外、現代までも読者の興味をつなぐ。骨格のしっかりした、それでいてするりと入り込んだ虚構が現実を揺らがせる、複雑な味わいを持つ歴史小説で、読みながら、著者が翻訳を手がけたコルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』を連想した。
清次郎の兄清太が、絵子の友人まい子にひそかに織らせた絹織物の地図こそが、戦時下の福井では、ユダヤ難民や、治安維持法に追い詰められた活動家を生き延びさせるための「地下鉄道」にあたるものなのだ。
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source : 文藝春秋 2020年4月号