「人間は謎です。その謎は解かれなくてはなりません。その謎ときに一生を費やしたとしても、時間を浪費したとはいえないでしょう。ぼくはこの謎に取り組んでいるのです。なぜかといえば、人間でありたいから」
若い日のドストエフスキーの人生にもっとも深刻な影響をもたらした事件が、父親の死である。右の引用は、1839年、父の死からまもなく兄に宛てて書かれた手紙の一節。彼はそこで、その衝撃の正体を問わず語りに打ち明けてみせた。
彼は、父親の死を、「父親殺し」として理解していた。その彼が「父親殺し」の内なる衝動に気づいたとき、彼の人生観にはドラマティックともいえる変容が生じた。その変容こそは、まさに『カラマーゾフの兄弟』の誕生の瞬間でもあったのだ。
翻って、私の人生を変えた事件とは何だったろうか? 人生を変える、というからには、たんに人生観を変えるにとどまらず、生き方そのものを変えるくらいのインパクトがなくてはならない。
ことによると、私の人生を決定的に変えた事件は、1冊の本だったのかもしれない、と思う。胸を揺さぶる物語にはいくつも遭遇してきたが、実人生の航路に大きな変更を加え、後々に決定的な意味を付与した読書は稀である。
その稀な読書に、私はこれまで、3度出会っている。出会いの対象は、いずれもドストエフスキーの小説である。むろん偶然ではない。
なかでも決定的と言える作品が、1冊目の『罪と罰』(池田健太郎訳、中公文庫)。中3の夏、2週間かけて読んだ。
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source : 文藝春秋 2023年5月号