「げにや安楽世界より。今此娑婆に示現して。我らがための観世音」
小学校高学年から岐阜の山中で世界文学全集や日本文学全集に読み耽っていた私は、谷崎や三島の描く大都会・東京への憧れに胸を膨らませていました。上京は1987年。バブル絶頂期です。日大芸術学部という変わり者集団の中で過ごしたせいもあったのか、華やかな時代には、恩恵を享受しつつどこか懐疑的でした。そこへグッと刺さったのが、近松門左衛門『曾根崎心中』です。
98年にフジテレビのアナウンサーを退職し、フリーアナウンサーとなったいまの私の生業は声の仕事。日本語を声で表現するということが生き方のベースになっています。きっかけは朗読でした。NHK専属の放送作家だった西澤實先生に、大学の4年間師事しました。先生の書いた『朗読・話芸脚本集 へんな本〈上〉朗読・物語編』(梟社)を通じて、平家物語から説経節、落語まで日本文学の古典に改めて出会うことになります。なかでも特に人生を変えるきっかけとなったのが、近松の曾根崎と泉鏡花『日本橋』。私達は原文を朗読させられたわけですが、そこには目で読んでいたものとはまったく違う感動がありました。
「此世のなごり。夜もなごり。死にに行く身をたとふればあだしが原の道の霜」。寝ていても暗誦するほど繰り返し練習したので、いまだにふと思い出します。近松の世界にどっぷりハマったことが、声の世界に進むきっかけとなりました。
当時、夢中で朗読した古典は、仕事に直接繋がった点でも人生を変えたわけですが、価値観を形成した点でも人生を変えました。共通するのは、精神世界で遊べるような、世界観にどっぷりはまれる「沼」のような作品であること。たとえば、近松の浄瑠璃の世界は気持ちがいい。善と悪がはっきりとありながら、勧善懲悪とは真逆のむしろ悪がのさばっている世界です。バブル期、ハリウッド映画が華やかなりし頃、トップガン的な戦後のアメリカ的価値観に若者の文化は染まっていた。なんだか嘘っぽい。そう感じていた私には元禄時代の混沌とした世界の方が心地よかった。古典というと古臭い過去のものと思われがちです。ジェンダー的視点からは許容できない表現などがある一方で、いまよりもっと多様性に富む生き方や価値観が根付いていたように感じるのです。
宇能鴻一郎の衝撃
中学の頃に読んで衝撃を受けた宇能鴻一郎『鯨神』(中公文庫)も、生き方の指針となりました。長崎の鯨漁をベースにした、命がけで巨大鯨に挑む寒村の若い銛師の話。のちに官能小説家に転身した宇能の、ある意味絶頂期の作品です。官能的なシーンこそほとんど出てきませんが、パワフルで、官能的で、血の匂いが滾るような小説。「土俗的」という言葉でよく評されますが、当時の私には非常にデモクラティックに感じられた。自由で民主的で、「これがいい。こんな生き方がしたい!」とものすごく共感したのです。スティーブン・ハンターの描くような孤高の戦士とはまったく異なる、きわめて日本的な、ムラ社会の中の戦士。鯨と戦って死ぬ、言葉でいえばそれまでですが、共同体に根ざしながら自分の自由を突き進む主人公の生き方、哲学に深く共鳴しました。宇能は、ポルノに転身したことで当時の知識階級から激しいバッシングを受けますが、彼は民衆に、大多数の人に評価された。莫大な財産を築き自分の城を建てた。非常に庶民的で正直ともいえる宇能のそうした感覚にも、シンパシーを覚えます。
好きだった作品は、思えばどれも似ています。血の通った、より根源的なもの。ドストエフスキーの沈鬱なうっとうしい世界にも魅せられました。森鴎外『高瀬舟』も、トップの知識階級であった鴎外が、上級国民ではなく「その他大勢」を描いたことに、驚きと好感を持ちました。「いつのころであったか。たぶん江戸で白河楽翁侯が」これも諳んじています。「これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた」。京都西陣の「空引き」という作業工程に従事する貧しい職人兄弟の話。名も知れず、病気にかかればただ死んでいく人たちが、どう誠実に、どう希望を持って生きたか。鴎外を見直したのが『高瀬舟』でした(笑)。
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