日本に帰ってきて滞在先のホテルでまず観るのは、国会の予算委員会あたりでの応酬だ。そして、もう少し気の利いた答弁はできないのかとタメ息をつくのもいつものこと。次いで必らず観るのが、日本の地方の人々の姿。風景や料理だけでなく農民や職人たちの仕事ぶりや話し方を観たり聴いたりしていると、長年外国に住んでいる私の心はなごんでくる。そして想う。日本人にユーモアの才能がないなんて、まったくの嘘だと。
それにしてもなぜ日本では、一般大衆のほうがユーモアの才に長けているのだろう。なぜ予算委員会あたりでの応酬は、いつになっても退屈なのか。帰国するたびにそんなことを考えていたのだが、この頃になってようやくわかったような気がする。
田舎(良い意味での)の人たちのユーモアは、意識しないで自然に口に出しているからではないか。それに正直に言おうと、誰からも告発される怖れはない。周囲も笑いで応じてくれる。しかも彼らは、相手の眼をきちんと見て話すし一生懸命に話す。また、話し方はトツトツとしていても簡潔に話すから、相手が外国人であっても相当な程度に正確に通ずる。思うことを正直に話すくらい、効果的なやり方はない。
ところがこの人たちよりは学識が高いはずの“選良たち”となると、とたんに相手への説得力が減少する。その要因は、いくつかあると思う。
まず第一に、場所が国会となるとなぜか全員がクソまじめになってしまうこと。それはおそらく、フザケているという同僚議員やマスコミからの非難を怖れてではないかと思う。また、フザケルナという非難はブログやツイッターでも寄せられるのが今の時代らしいから、それへの防衛策でもあるだろう。この種の非難をぶつけてくる人々はきっと、人間世界には冗談でしか伝えられない真実もある、という昔の人の智恵を知らないのにちがいない。要するに、常にピリピリしている精神的に貧しい人たちで、こういう人だけが突けそうと思うやキャンキャンわめくというわけだ。
ユーモアや冗談とは、刺身のツマや煮物についてくる山椒の葉のように、なくてもかまわない存在である。だがあれば、化学反応を起す。つまり、活きてくる。ああ私は今、美味い料理を食べているなと、食べている人に気づかせる役に立つ。
古代ローマのジャーナリストでもあった哲学者のキケロは、同時代人のユリウス・カエサルの演説をこう評した。どんな深刻な内容の演説をしなければならなくなっても、彼は常にユーモアとアイロニーで味つけすることを忘れなかった、と。ちなみにアイロニーとは、上質の冗談と考えてよい。
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source : 文藝春秋 2014年12月号