明治・大正期ロシアのスペシャリストによる鋭いウクライナ分析『露国及び露人研究』大庭柯公

ベストセラーで読む日本の近現代史 第9回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
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 ロシアに関係する外交官、新聞記者、学者、商社員などが必ず読むのが1925年に刊行された大庭柯公(かこう)の論集『露国及び露人研究』だ。現在は古本屋でしか入手できないが、日本のロシア専門家にとって本書は永遠のベストセラーである。

 

 柯公は、本名を景秋といい、1872(明治5)年に山口県長府(現在の下関市)で生まれた。小学校卒業後、太政官で給仕として働き始めるが、2年後に写字生(現在の事務官)に登用される。夜学でロシア語、英語を勉強し、長谷川辰之助(後の二葉亭四迷)と面識を得た。24歳のときにウラジオストクに渡りロシア語を実地で鍛える。帰国後、陸軍のロシア語教官や参謀本部の通訳官を務める。その後、大阪毎日新聞社等を経て読売新聞社に移り、編集局長になる。1921年5月、特派員としてシベリアからソ連に入国、7月にチタから読売新聞に送った「見たままの極東共和国――チタを発するに臨みて」が最後の原稿になる。24年頃にスパイ容疑で処刑されたと見られる。

 現在、ウクライナ危機をめぐってロシアと欧米の対立が深刻化している。柯公は、ロシアだけでなく、クリミアやウクライナについても、よく調べている。1920(大正9)年に『我等』に掲載された「クリミヤ半島の史的位置」という論考で、柯公は、ロシアにとってクリミアは満州における遼東半島、日本における長崎のような戦略的重要性を持っていると指摘する。

〈露西亜(ロシア)におけるクリミヤ半島の位置は、満州における遼東半島であり、また日本の中国九州に対する長崎である。長崎が日本において外来の文明を吸収する嘴(くちばし)であったように、クリミヤは欧露の希臘(ギリシア)文明を吸い込んだ咽喉であった。〉(ルビ 引用者、以下同)

 柯公は、文明の出会いの場であるクリミアで最も重要なのは、タタール人(韃靼〔だったん〕族)であると考える。帝政ロシア時代、タタール人は、帝国内のムスリム(イスラーム教徒)を指していた。コーカサス・タタール人(現在のアゼルバイジャン人)、ボルガ・タタール人(現在のタタール人)、クリミア・タタール人は、現在の基準ではいずれも別民族であるが、柯公は当時のロシア人同様にタタール人を一民族と考え、その特徴についてこう述べている。

〈クリミヤ地方や韃靼族が、何故さほどにやかましく研究に値するかと言えば、そは言うまでもなく露西亜文明の性質を解剖する上にこの二者を熟知する必要があるからである。人口の点から言えば僅かに二、三百万の韃靼族であるが、今の露西亜の文明は、半ば以上彼らの祖先が基礎を築き上げたのである。そしてその文明の発祥地たり根拠地たるものが実にクリミヤ半島である。クリミヤの原語たるクルイムまたはクリームの名称の如きも、ある学者は希臘の古語であると言うが、多くの考証は韃靼語たるヒリーム(征服)またはケルム(城塁)もしくはキリーム(塹壕)に起源したものであるということに一致しておる。〉

 柯公は、ロシアは、正教徒(キリスト教徒)のロシア人のみでなく、ムスリムのタタール人やペルシア人、コーカサスの少数民族、シベリアのモンゴル系諸民族を含む坩堝(るつぼ)のような帝国と考えていた。ちなみに今年3月18日にロシアはウクライナのクリミア自治共和国を編入したが、それに先だってプーチン露大統領は、クリミア・タタール人の代表者に電話をして、懐柔に努めた。ロシアに編入されたクリミアでは、ロシア語、ウクライナ語、クリミア・タタール語の三言語が公用語と定められた。プーチンもタタール人を重視している。

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source : 文藝春秋 2014年6月号

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