テロという戦争への対策

日本人へ 第144回

塩野 七生 作家・在イタリア
ニュース 社会 国際 歴史

 私には、その国を訪れるたびにまずは足を向ける美術館がある。ロンドンでは大英博物館、ローマでは住んでいながら午後のひとときを過ごすという感じで向うカピトリーノとパラッツォ・マッシモの二カ所。チュニジアの首都チュニスにあるバルド美術館もその一つだった。幾度となく訪れているのだから、展示物のすべては知っているのに、行くたびに何かは学べた。机の上で研究書を読むのと現物を前にしながら考えるのとでは別物なのだ。バルド美術館の展示物の主力はこの地方がローマ帝国領であった時代のモザイクで、そのあまりの見事さに、帝国の穀倉と呼ばれた時代の北アフリカの経済と文化の水準の高さに驚嘆したものである。この地方から、皇帝の家庭教師が選ばれるのも当然だと。

 このバルド美術館がイスラムの過激派に襲撃され、イタリア人四人をふくむ二十人もの観光客が殺された。日本人も三人殺されたという。イタリアは近いから、イタリア人の観光客が多いのは当然だ。でも日本からわざわざこの美術館を訪れるとはよほどのローマ史好きではないかと想像したら胸が痛んだ。

 チュニジアは、アラブの春とか言われて一時は賞讃の的だった騒動の穏当な着地に、成功しつつあった唯一のイスラム教徒の国である。観光客ももどり始めていたし、隣国のリビアとちがって危険もないと思っていたのか、入館者の手荷物の検査さえもしていなかった。それにモザイクは鑑賞しやすいように壁面や床に張られているので、何か起っても隠れる場所がない。その人々に向って二、三人のテロリストが、カラシニコフを撃ちまくったのだろう。撃ちまくるのに熱中して自爆までは行かないうちにチュニジアの特殊部隊に殺されたようで、それだけは不幸中の幸であった。自爆していたら、モザイクは粉々になっていたであろうから。

 それにしても、この種のテロに巻きこまれることまで自己責任とされるのであろうか。自己責任を問われるのは、行ってはいけないとの通達があったにかかわらずあえて行った場合ではないのか。少なくともイタリア政府は、テロの犠牲者に対しても、海外に派遣されている軍関係の犠牲者と同じ待遇を与えている。首相自らが、遺体の帰国を空港で出迎えるというやり方で。

 日本政府は今後とも、どう対処するつもりなのであろうか。九・一一のときの犠牲者たちの帰国は、誰が出迎えたのだろう。そしてその後は? 「見たことのない戦争が始まった」というからには、対テロも戦争である。ならば、犠牲者への対処法も、それなりの方法であるべきではないのか。

 美術館は、渡航禁止令を出すこと自体が無駄なくらい世界中にある。しかも、ISISが敵視する先進国に多い。その館内で芸術作品を鑑賞中に殺された場合でも、自己責任とされてしまうのか。

 また、イスラムの過激派は、無知を恥に思うどころか誇りにしているらしい。イスラム教の始祖マホメッドの生れる以前の世界には、人類は存在しなかったとでも言いたいかのようである。ゆえに「プレ・イスラム」(イスラム以前)も抹殺の対象になるわけで、キリスト教を敵視しているだけかと思っていたら大まちがい。メソポタミアもエジプトもギリシアもローマも、彼らにすれば立派に破壊の対象になる。先頃ティグリス河流域のハトラの遺跡が破壊されブルドーザーで地ならしまでされたと伝えられたが、あそこはオリエントの影響は強いにしろローマ時代の遺跡である。過去の時代の文明文化、つまりは人類の遺産という考えは、あの男たちにはないのだ。そのうえ同じイスラム教徒同士でも信じ方がちがえばもはや敵で、シーア派のモスクというだけで爆破された。歴史は、彼らの頭の中では、彼らの考える真の信仰への障害物でしかないのである。だから上野の国立博物館だって、安全と決まっているわけではない。

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source : 文藝春秋 2015年5月号

genre : ニュース 社会 国際 歴史