地中海が大変なことになっている

日本人へ 第145回

塩野 七生 作家・在イタリア
ニュース 社会 国際

 チュニジアのバルド美術館で起ったテロ事件のように日本人の犠牲者が出たわけではないが、ある意味では日本の今後の難民政策にも、少なからぬ影響をもたらすかもしれない事態になっている。

 地中海の中央に突き出た形のイタリアには、今年に入ってからはほとんど連日、一日に千人もの不法難民が上陸するようになった。だが、北アフリカを出てヨーロッパを目指す難民は、最近になって急に起った現象ではない。これまでも夏になると、ボロ漁船に身を託して北アフリカを出た難民が、個々別々という感じで来てはいたのである。

 地中海は、広いとはいえ内海だ。それが夏ともなれば波が静かになるだけでなく天候も良く変わり、しかもこの季節特有の潮流に乗りさえすれば二、三日でイタリアの浜辺に着いてしまう。この程度の距離で、イタリアの最南端の島シチリアとチュニジアやリビアは向い合っているのである。だからこれまでにも、地中海をはさんでの南から北への不法難民という現象はあったのだ。

「難民」とは、生命の危険から逃れるとか食べていけなくなったという理由で自分の国を捨てる人のことだから、歴史上でも常に存在したのである。だが数年前までは散発的であったので、ヨーロッパ側も、人命救助の水準で処理できる規模と考えていた。私も五年前までの二十年間、『ローマ人の物語』や『ローマ亡き後の地中海世界』を書くうえでの勉強や調査で何度となく北アフリカを訪れたが、ローマからチュニスの飛行場に着いた後に時には遠出してアルジェリアやリビアの遺跡に行っても、身の危険を感じたことはない。あの頃は後に起る「アラブの春」とか「ジャスミン革命」はまだ爆発していず、これらの国々の独裁者たちも健在で、どうしようもないくらいに品位に欠ける彼らだったが少なくとも部族の勝手気ままは許さなかったので、現地の友人と二人だけで遺跡に行っても心配はなかった。それが今では、まったく変わってしまった。しかもリビアでだけ急激に。なぜか。

 まず第一に、難民の“生産地”がぐっと広まったことがある。イラク、シリア、パレスティーナ、それにこれまでにもいた、中央アフリカの国々が加わる。そしてこれらの国々からの難民は、リビアに集中するようになった。エジプトから出ようにも、エジプトはエジプト式ながらも「アラブの春」から脱却しようとしていて、ということは中央政府が機能しているので、難民船も勝手は許されない。同じくジャスミン革命からの軟着陸に懸命なチュニジアも、ヨーロッパからの観光客による収益を無視できない以上、欧米人の嫌う不法行為はやれない。また、一応は安定しているアルジェリアとて同様だ。北アフリカ一帯ではリビアだけが独裁者カダフィを殺した後は内戦に突入してしまい、無政府状態が今なおつづいているのである。要するに部族間抗争が再燃したからで、政府だけでも二つある。そのうえ、無政府状態を温床とするISISまでが入り込んできたので、今の時点ではリビアだけが、もう何が何だかわからない混迷下にある。

 無政府状態ゆえの混乱を温床にしているのは、ISISだけではない。イスラム教への信仰などは知ったことではないと思っている単なる無法者にも、今のリビアは天国だ。それでリビアの海岸一帯では、漁師からボロ漁船を安く買い、それに高額な、一人につき一千から三千ドルもの“乗船代”を払った難民たちを魚のカンヅメ顔負けの密度でつめこんで地中海に放つ。少額の乗船代しか払えない難民は船倉に追いこまれて外から鍵をかけられてしまうので、沈没でもしようものなら真先に死ぬ。だから、というわけでもないだろうが、難民を満載した漁船でもゴムボートでも、シチリアまでたどり着くことなどは考えていない。いまだリビアの領海内にいるというのに、スマホでSOSを発する。これを聴き流すことは許されないイタリアの海上保安庁や海軍が、自国の領海外であろうと救助に向い、救助し、自国内に連れ帰るというわけだ。自国の領海内で起ろうものなら、絶対に救助する義務がある。

 この状況が、もはや夏冬に関係なく、一日に一千人という規模でつづくようになったのである。しかもイタリアを目指す難民が集結しているリビアには、百万人以上が待機中という。悲鳴をあげたイタリア政府の提唱で今日(四月二十三日)ブリュッセルで首脳会議が開かれているが、抜本的な対策には至らないだろう。なぜなら、難民を止めるには、彼らの国で起っている内戦を止めるしかないからだ。と言って、昔の植民帝国主義の再来と非難されること確実な解決策に乗り出す精神面での勇気も経済上の余裕も、もはや欧米にはない。だから、外国人労働者を毎年二十万人受け入れると言っている日本政府が全員引き受けますよとでも言おうものなら、ヨーロッパ中から感謝されるだろう。やってみますかね、安倍総理。

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source : 文藝春秋 2015年6月号

genre : ニュース 社会 国際