2003年4月に上梓された本書は、436万部を超える超ベストセラーだ。本書が新書ブームに火を点けたと言ってもよい。
知りたくないことに耳を傾けない人は多い。特に現在、政治の世界で流行になっているのは、実証性と客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度を特徴とする反知性主義だ。反知性主義の構造を理解するためにも『バカの壁』は必読書だ。
養老氏は、脳への入力、出力という点に着目した一次方程式についてこう述べる。〈五感から入力して運動系から出力する間、脳は何をしているか。入力された情報を脳の中で回して動かしているわけです。/この入力をx、出力をyとします。すると、y=axという一次方程式のモデルが考えられます。(中略)/このaという係数は何かというと、これはいわば「現実の重み」とでも呼べばよいのでしょうか。人によって、またその入力によって非常に違っている。通常は、何か入力xがあれば、当然、人間は何らかの反応をする。つまりyが存在するのだから、aもゼロではない、ということになります。/ところが、非常に特殊なケースとしてa=ゼロということがあります。この場合は、入力は何を入れても出力はない。出力がないということは、行動に影響しないということです。/行動に影響しない入力はその人にとっては現実ではない、ということになる。〉
「馬の耳に念仏」という状態がまさにそれだ。エスノクレンジング(民族浄化)を行う民族主義者、「イスラム国」(IS)でジハード(聖戦)を口実に拉致した人々の首を切り落とす過激派に、言葉での説得は意味をなさない。それでは、このような「絶対に正しい事柄がある」と確信し、自らの目的を達成するためには暴力やテロに訴えることも辞さない人の、脳への入出力はどうなっているのであろうか。養老氏は、〈a=ゼロの逆はというと、a=無限大になります。このケースの代表例が原理主義というやつです。/この場合は、ある情報、信条がその人にとって絶対のものになる。絶対的な現実となる。つまり、それに関することはその人の行動を絶対的に支配することになります。〉と指摘する。
筆者の場合、絶対に正しい事柄は存在する。プロテスタントのキリスト教徒なので、神の存在を信じているし、イエス・キリストを信じることによって救われると思っている。また、マルクスが『資本論』で展開した、「労働力の商品化」というキーワードを元に分析すれば、資本主義社会の構造を客観的かつ実証的に明らかにできると考えている。これらの事柄は、筆者にとって、絶対的に正しいが、他の人にとってはそうではないと思う。絶対に正しい事柄は存在するが、その内容は、文字通り、人それぞれなので、この世界には複数の絶対に正しい事柄が存在するという前提で、多元性と寛容が社会における最も重要な価値であると筆者は考える。人間の社会には、複数のバカの壁があることを認めなければならない。こういう発想になるのは、筆者の脳の中には複数の一次方程式が並立しているからだと思う。
目が離せないくだり
さて、『バカの壁』が上梓されたとき、筆者は、東京拘置所の独房に勾留されていた。この本を読んだのは、2003年10月8日に保釈になった直後のことだ。当時、筆者は京浜東北線与野駅そばに住んでいた母のもとに身を寄せ、月に一度の出廷以外は、読書を中心とする生活をしていた。与野駅西口の書店兼文房具店で本を買い、さいたま新都心駅まで歩いて、カフェで本を読むのが日課だった。スターバックスで、キャラメルマキアートを飲みながら『バカの壁』を読んでいると、以下のくだりから目を離すことができなくなった。
〈鈴木宗男氏との癒着の問題で、外務省の次官が外国から呼び戻された時に、帰国しての第一声で「外務省はこの難局に当たって一致団結し……」と言ったのは象徴的でした。実に頭に来ました。/それまでさんざん、同僚が愛人の名をつけた競走馬を買っただの、鈴木氏と癒着して勝手放題していただのという問題が指摘されたところにもってきて、「みんなで一致団結」というのはどういうことなのか。世間は誰もそんな姿勢を求めておらず、当然、悪い膿を出すことを期待していました。にもかかわらず「省員の一致団結」とは……。いかに彼らが世論を考えておらず、共同体の成員としての考え方しかないかというのが、その一言でわかった気がしました。〉
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source : 文藝春秋 2015年8月号