ノーベル賞受賞者の文学的才能『ソロモンの指環』コンラート・ローレンツ

ベストセラーで読む日本の近現代史 第27回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
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 2015年のノーベル賞を二人の日本人が受賞した。生理学・医学賞に寄生虫やマラリアなどに関する研究で大村智・北里大学特別栄誉教授が、物理学賞に物質の最小単位である素粒子の一つ、ニュートリノに重さ(質量)があるのを初めて確認した研究で梶田隆章・東京大学宇宙線研究所所長が選ばれた。理科系のノーベル賞受賞者には文学的才能を持った人が少なからずいる。そのうちの一人が、オーストリアの動物行動学者コンラート・ローレンツで、1973年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。ローレンツは、生理学や解剖学ではなく、観察というギリシア古典哲学で用いられた伝統的手法を用いて、動物の行動を直接分析し、動物行動学(エソロジー)という学問を開拓した。もっとも、ローレンツは、種の保存という概念で動物を観察していたが、最近では、エドワード・オズボーン・ウィルソン(1929年生まれの米国の昆虫学者・社会生物学者)、リチャード・ドーキンス(1941年生まれの英国の進化生物学者)をはじめ、動物の行動は種のためでなく自己の遺伝子を増殖させるためという見方が強まり、アカデミズムではローレンツの影響は後退している。それであっても、ローレンツの理論は、哲学者、文学者らに現在も無視できない影響を与えている。それは、『ソロモンの指環』をはじめ、文学的に優れた一般向け書籍を多数刊行したからだ。

 

 ローレンツの理論で、もっとも有名なのが「刷り込み」(imprinting)だ。動物は、ある時期(たいていは出生直後)に特定の事柄を短期間で覚え、それが長期間持続する。特に鳥類においてその傾向が顕著だ。〈ヒナのときから一羽だけで育てられ、同じ種類の仲間をまったくみたことのない鳥は、たいていの場合、自分がどの種類に属しているかをまったく「知らない」。すなわち、彼らの社会的衝動も彼らの性的な愛情も、彼らのごく幼い、刷りこみ可能な時期をともにすごした動物にむけられてしまうのである。したがって大部分の場合、それは人間にむけられる。こういう状態のもとでは、およそ珍妙なまちがいもおこりうる。〉

 具体的にローレンツはこんな例を紹介する。〈悲喜劇は、シェーンブルン動物園にいたオスのシロクジャクにもおこった。彼もまた、早くかえりすぎて冬の寒さで死に絶えた仲間のうちの唯一の生き残りであった。彼は動物園じゅうでいちばん暖かい部屋に入れられた。それは第一次大戦直後の当時では巨大なゾウガメの部屋であった。それからというもの、この不幸な鳥は一生の間ただこのぶざまな爬虫類にむかってだけ求愛し、あれほど美しいメスのクジャクの魅力にはまったく盲目となってしまったのである。衝動の対象をある特定のものに固定するこの「刷りこみ」という過程には、やりなおしがきかないのだ。〉

ローレンツの思想の魅力

 人間の場合でも、幼少期についた習慣は、良いものであれ、悪いものであれ、大人になってから変えることは難しい。ローレンツの思想の魅力は、このような擬人化が可能なことだ。この点で興味深いのが、動物が持つ攻撃能力と抑止本能の関係についての見解だ。平和のシンボルのように受け止められているハトの残虐さについてローレンツはこう指摘する。〈あくる日帰ってみると、ぞっとするような光景がくり広げられていた。キジバトは籠の一隅の床にたおれていた。その後頭部と首のうしろ側、さらに背中じゅうが、尾のつけ根にいたるまで羽毛をむしられて丸坊主にされていたばかりでなく、一面にベロリと皮をむかれていた。この赤裸の傷口のまんなかに、もう一羽の平和のハトがえものをかかえたワシのようにふんぞりかえっていた。擬人化の好きな観察者ならさだめし共感を呼ぶであろうその物思いに沈んだ顔つきで、この畜生は文字どおり「踏みにじられた」相手の傷をなおもたえまなくつつきまわしていた。たおれているハトが最後の力をふりしぼって逃げだそうとおきなおるやいなや、ジュズカケバトはすぐに押したおし、やわらかいはずの翼で相手を床に打ちのめす。そしてふたたび冷酷きわまる、いびり殺しの作業にとりかかる。(中略)争いのさいに、やはり相手の皮をはぎとる多くの魚類のほかには、私は同族の仲間をこんなにひどく傷つける脊椎動物をみたことがない。〉

 これに対して、オオカミやイヌなどの狩猟動物は、喧嘩をするときには抑制が働く。〈なぜイヌは首すじをかむ行動の抑制をもち、カラスは仲間の目玉をつつく行動の抑制をもつのだろう? なぜジュズカケバトは「同類虐殺を防ぐ保障」を一つももっていないのだろう? この「なぜ?」にたいしては、ほんとうに因果的な答えをすることはできない。どうしても答えは、この過程の歴史的説明になってしまう。つまり、狩猟動物における危険な武器の発達と並行して、このような抑制が進化的にどのように発達してきたか、ということだ。なぜ、なんのために、武器をもつ狩猟動物がこんな抑制をもっているのかは、おのずと明らかである。もしワタリガラスがなんの抑制ももたず、なんでもキラキラ光る動くものをつつき、彼の兄弟や妻やヒナたちの目玉をつつきまわっていたとしたら、もはやこの地上には一羽のワタリガラスも存在していなかったろう。〉

 もっとも、最近の社会生物学者は、ローレンツが主張するような、猛禽類や猛獣が種の保存のために同族を攻撃しないという見方を退ける。ライオンは、一頭のオスと数頭のメスと子どもが群れになって暮らしている。新しいオスが、群れを乗っ取ることがある。その場合、新しいオスは、メスたちが追い出されたオスとの間につくった子どもを殺すという。オスが残そうとしているのは、種ではなく、自らの遺伝子であると解釈した方が、この現象を合理的に説明することができる。

霞が関の行動様式

 人間社会との類比で考えると、日常的に闘争を繰り返している永田町の政治家たちは、政敵を徹底的に追い込むことは避けようとする傾向がある。相手が本気で牙をむいてきたとき、自分がどれだけ傷つくかという計算を無意識のうちにしているので、抑制が働くのであろう。これに対して、偏差値秀才が多く、喧嘩が苦手な霞が関の官僚たちが権力闘争を始めると悲惨な結果をもたらすことになる。霞が関官僚の行動様式を理解するヒントをローレンツの以下の記述から得ることができる。〈ハトのようにくちばしが弱く、つつかれても羽毛が二、三本ぬける程度の武器しかもたぬ鳥同士なら、そのような抑制なしでも十分やってゆけるわけだ。負けたと感じたほうのハトは、相手から第二の攻撃が加えられる前に、さっさと逃げてしまう。けれど、せまい檻のように不自然な条件のもとでは、負けたハトはすばやく逃れる可能性を封じられてしまう。そこでいよいよ、このハトには仲間を傷つけ苛むことを妨げる抑制が欠けていることが、完全に露呈されてしまうのだ。きわめて多くの「平和的な」草食動物は、やはりこのような抑制をもっていない。このことは、これらの動物をせまい檻にたくさんつめこんでおくとすぐにわかる。もっともいまわしくおよそ抑制などを知らない血に飢えた殺人鬼は、ハトについでやさしさのシンボルとされ、フェリックス・ザルテンによって少々いや味なほど賛美されたノロジカの「バンビ」である。/この性の悪いけものは、おまけに角という武器までもっている。しかもその角の使用にはほとんど抑制がないのである。この動物は、角を「勝手に使える」のだ。なぜなら、どんなに弱いノロジカでも、最強のオスの攻撃から逃れるに十分な逃走能力をもっているからである。〉

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source : 文藝春秋 2015年12月号

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