細胞の視点で人類を物語る
科学の語り部――。著者ムカジーにはそんな称号がよく似合う。前2作(『がん 4000年の歴史』、『遺伝子 親密なる人類史』いずれも早川書房)で、その語り部としての才能を遺憾なく発揮した彼が、生命体の根幹であり単位である細胞を題材に、古今東西を駆け抜けて縦横無尽に語り尽くしたのがこの本だ。おもしろくないわけがない。
ムカジーは、生物の繁殖、発達、生理、代謝、調節などあらゆる現象に「細胞」という共通の横串を刺して、私たちの身体のさまざまな活動を細胞の視点から描き直す。なんという力技。たとえば、いわゆる「遺伝子治療」は遺伝子操作を加えた細胞によって別の細胞の不具合を治すのでこう呼ばれているが、これも要するに細胞治療なのだという具合だ。細胞の視点から改めて見直すことで、生物や医学への見方がまるで変わってくる。これぞ科学の醍醐味。
生命医科学の倫理的な側面についても丹念に扱っており、少数の科学者による暴走は厳しく批判されている。その一方で、生命科学の最新技術による治療や改変を受ける「ニューヒューマン」に対して、ムカジーは期待と明るい未来像を描く。細胞生物学が、その出発点から今に至るまで、常に社会構造や文化、そして人間自身を変え続けてきたことを、彼が熟知しているからだろう。私たちはすでにしてニューヒューマンなのである。
この本では、科学史上の発見の物語に、現在の臨床現場でのエピソードがちょこちょこ挟まれてくる。たとえば、診断の難しい患者に直面したムカジーが、極寒の冬の夜に、細胞学の開拓者のひとり、ルドルフ・ウィルヒョウの19世紀の講義集を開き、その中の一節に、目の前の患者を救う啓示を得る(上巻95頁)。
こういったエピソードから私たちは、過去の研究成果と今の医療行為が連続していることを体感する。科学も医学も、「◯◯の発見」が点として存在しているわけではない。当時の社会の中での同僚やライバルたちとの様々な関係(細胞学がらみの殺人事件もあったとのこと)、その成果を受け継ぎ、練り上げ、改良して今に伝えてきた多くの人たち、そしてそれを使ってひとりの患者の命を救わんと奮闘する医師。これらすべてが生態系のようにつながっている。その全体像を、ムカジーは、描き出す。
そして私たちもまた、本書を読むことで、この生態系の一員であることを再確認させられる。圧巻の読書体験だ。
「『今』と『未来』を見通す科学本」は村上靖彦、橳島次郎、竹内薫、松田素子、佐倉統の5氏が交代で執筆します。
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