政治思想史学者であり、戦後民主主義思想の構築に指導的役割を果たした丸山眞男(1914〜1996)。岩波書店社長・坂本政謙氏が、担当を務めた若き日の思い出を綴る。
政治学を学ぶ者の大半がそうであったように、私も丸山眞男先生の著作から、多大な刺激と影響を受けました。岩波書店に入社したのちも、先生は著作のなかにのみ存在する方で、その謦咳に接するなど考えたこともありませんでした。それが何の奇縁か、『丸山眞男集』の編集実務の末に連なることになるとは。書店営業から編集部に異動して間もない29歳。「本当に私でいいんでしょうか?」と当時の上司に問うたことを憶えています。たとえパシリであってもパシリなりの緊張感があり、またそれが誉れでもありました。
初めて先生にお会いしたのは、担当のご挨拶のためにご自宅に伺ったおりです。「坂本は高畠通敏さんのところで政治学を……」と上司が紹介したところ、先生はときおり冗談を交え、4、50分程でしょうか、私が生まれる以前、『現代政治の思想と行動』の収録論文を執筆されていた頃の、昔話をされました。煎じ詰めれば「私は思想史家ですから、くれぐれも政治学のことは訊かないように」と釘を刺されたということです。
そもそも先生に質問するほどの見識も勇気もありません。後にも先にも私が先生に直接何かをお尋ねすることはありませんでした。せいぜいがご校正いただくゲラに確認事項を書き込むぐらいです。たまに同席する場でも、先生と上司の会話に黙って耳を傾けているだけ。そんなパシリにも先生は気を遣って、「坂本くんは、このほかにどんな企画を?」などと問いかけてくださいました。
先生の戦争体験について些かなりとも知る者としては躊躇しましたが、現代の若者が終戦間近の特攻隊員に生まれ変わってしまうという舞台が注目を浴び、文化庁芸術祭賞だけでなく、NYでも英語劇として上演され国際連合作家協会芸術賞を受賞したこと、その脚本・演出・主演をこなす同世代の俳優のことを戦後50年にあたってまとめたいと思っていると話しました。硬直して気の利いた返答もできない私に、「ほぉ〜そういうものがあるんですか。どんなふうに評価されているんですか?」と(リップサービスであれ)好奇心をもって応じてくださった先生の笑顔は、忘れることができません。
そんな私でも、いまならお尋ねしたいことがあります。ご著書『戦中と戦後の間』(1976〔昭和51〕年)という書名には、「尊敬する思想史家」ハンナ・アーレントに「象徴的な題名(『過去と未来の間』)なりともあやかりたいという気持が籠められている」と、その「あとがき」にはあります。当時、先生は彼女とその著作をどう評価されていたのでしょうか? 同じ思想史家として「尊敬する」とは、どういう点を? と。
現在、アーレントへの評価は、その頃と比べて大きく変貌し、内外問わず様々な角度から、その思想的可能性が活発に論じられています。しかし、些か乱暴にまとめてしまいますが、『全体主義の起原』において、イデオロギーによる支配と組織的なテロルによって特徴づけられるTotalitarianismとして、スターリニズムをナチズムと一括りにして批判するだけでなく、『革命について』では「自由の創設」という視座からアメリカ独立革命を高く評価する一方で、フランス革命を、更にはロシア革命を、その精神を喪失し恐怖政治に堕落したものとして論じるアーレントの言説は、当時の冷戦を背景とした峻烈なイデオロギー対立の只中では、左翼勢力に反ソ、反共、さらには反動として受け止められたことは明らかでしょう。そんな彼女を「尊敬する思想史家」と明言し、「題名なりともあやかりたい」と記したことが各方面に当惑をもたらしたであろうことも、想像に難くありません。
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