白井晟一 貴人にして野人

白井 昱磨 次男・建築家
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「原爆堂計画」や「ノアビル」「渋谷区立松濤美術館」などで知られる建築家、白井晟一(せいいち)(1905〜1983)は時には「異端」とも言われ特異な存在であり続けたが、死後ますますその評価は高まっている。その素顔を同じく建築の道を歩んだ次男・昱磨(いくま)氏に聞いた。

 東京・江古田に父が設計した20坪ほどの平屋で4人家族が暮らし始めたのは、1951(昭和26)年、私が幼稚園の頃です。この家は大きな台風が来ると雨漏りするような未完成の建物で、外壁や内壁は1963年に移築されるまでほぼ変わりませんでした。水洗式が許可されるまで、臭いを嫌って便所は作られず便器を使っていました。

 そういう家を、時には雨も漏るんです、とユーモアを込めて父は「滴々居」と呼びました。不思議と来客が絶えなかったのは、彼が人と会うのが好きだったからかもしれません。暮になると一家で雑巾をもって大掃除を命じられましたが、今思えば、未完成で不便な家でしたが住む者の積極的な関わりが求められる家でした。

白井晟一

 京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)在学中から哲学に興味を抱き、ドイツに留学し6年ほどを過ごしますが、哲学や美学の学習のかたわらゴシック建築などへの関心を深めたようです。帰国後、義兄(近藤浩一路・日本画家)や中央公論の嶋中雄作などの住宅の設計から、建築家としての仕事を始めています。

「滴々居」に移り住んで間もなくその前を通って通勤していた建築評論家(当時は「新建築」編集長)の川添登さんが「滴々居」に目をとめてしばしば訪れ徹夜で話をするようになり、雑誌でも積極的にとり上げ、やはり彼が親しくしていた丹下健三と対照的な作家として並べて評論します。

 1961年に建築界からは初めてという「高村光太郎賞」を受賞しますが、その選考理由は、秋ノ宮や松井田などの地方の公共建築や浅草善照寺本堂、原爆堂計画などを対象として、時代を越えた普遍性を追い求めるヒューマニズムを評価するというものでした。

 秋田の秋ノ宮の村役場の設計ではその特徴的な切妻の大屋根は、秋ノ宮の多くの民家に共通している屋型から得たものであると父は述べ、戦後の日本の近代建築と言われるものが、欧米の近代建築に追従したり模倣する傾向であったのに対して、その土地の歴史と現実から出発しようとしていたことが分かります。一方「善照寺本堂」はコンクリートで築かれた仏教伽藍でしたが、装飾を建築からは一切取り除き白亜の殿堂を実現しています。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

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