いつの頃からか、「正義」や「政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」といったフレーズに否定的なニュアンスや留保がともなうようになってしまいました。たとえば前者では「正義の暴走」「正義の反対は別の正義」だとか。後者には「ポリコレ」という揶揄を込めた蔑称が割り当てられ、それが暴力的なものであるかのように用いられています。「正義」とは棍棒のようにふりかざされるもので、その存在によって私たちを息苦しくさせるものであるというかのようです。
このように「正義」に警戒心をいだく動向には、一定の理由があるでしょう。たしかに、とくにインターネット上において、誰かが自分(たち)の立場を正当化して、他者を非難する際に「正義」を掲げたり、あるいはその旗のもとでSNS上の匿名の大勢が問題ありと目されたアカウントを徹底的に「炎上」させたりすることは、めずらしい光景ではありません。「匿名の大勢」であるうちは、気楽に見物したり、攻撃に加わることができるかもしれませんが、いざ自分や周囲のひとびとにその力が行使されているのを見たり、想像したりするとゾッとするという感覚は、おそらく多くのインターネットユーザーに共通するでしょう。
こうして、「正義」は敬して遠ざけられるか、あるいは、積極的に放棄されるべきものとして揶揄や冷笑の対象になるか、という冒頭の状況が生じています。では、私たちはもう「正義」という語を手放してしまった方がよいのでしょうか。もちろん、そんなはずがありません。問いは次のように立てるべきでしょう。そもそも私たちは、個々人の、そして社会という単位での「正しさ」というものを、どういうことばで、どう扱ったらよいのだろう。「正義」はちょっと強面に感じられるし、自分では使いづらいのだけど、でも「正しさ」を放棄してしまってはまずいとは思う――おそらく多くの方に共有されるこのバランス感覚を、どう実現したらよいのでしょうか。

正義は「善」とは異なる
哲学、とりわけ政治哲学や倫理学では、ずっとこうした「理念」や「正しさ」にかかわることばづかい(概念)を磨き、洗練させてきました。いま「正しさ」が揺らいでいるからこそ、先人たちが蓄積させてきた知恵を参照することで現状を打開するヒントが得られるはずです。いうまでもなく「正義」は大事なもので、適切に用いられたならば、とうてい「暴走」などするものではないし、その反対は「別の正義」でもないのです。
こうしたあるべき「正義」の用法を整備した第一人者こそ、20世紀を代表する政治哲学者ジョン・ロールズです。ロールズ流テクニックの肝は、「正義」をそうでないものから区別することです。何から区別するのか。それは先ほどまで見たような「正しさ」にまつわる危ういことばづかいです。つまり各人がいだく「なにがよくて、なにがわるいか」という個々人の見解(「善」)から、みんなで合意されるべき「正しさ」(「正義」)を区別しよう、とロールズは提案したのです。
ロールズは、この区別を念頭に「公正としての正義」という理念を提唱します。その場が公正(フェア)であるような場において皆で選んだ社会構想やルールであれば、それは「正義」の名に値するだろう、というのです。注意したいのは、「公正」や「皆」というところです。「公正さ(フェアネス)」とは、私たちの社会における不均衡や不平等、対等ではない――「フェアじゃない」――という感覚にかかわっています。一方の声が抑圧されていたり、そもそもその場にいないものとして扱われているとき、「正義」の名に値する構想は成立しません。なので、「正義」の名のもとで誰かを黙らせようというのは、そもそもロールズ流の「正義」ではないのです。
『正義論』という本を通じて、ロールズはこのテクニックの重要さと、その効果をていねいに論じました。今日、すくなくとも哲学の分野において、ロールズ流の「正義」の運用テクニックをまったく意識せずに議論することは、まずありえません。たとえば、政治哲学者のアイリス・マリオン・ヤングは、ロールズの「正義」の用法を踏まえた上で、この用法では社会における個々人の責任があいまいになってしまうと批判します。ヤングは理念としての「正義」ばかりでなく、現実としての「構造的不正義」に注目するよう促します。私たちは、この「構造」の一員であり、不正義な状況を改善する責任を担わなければいけません。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
初回登録は初月300円・1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
電子版+雑誌プラン
18,000円一括払い・1年更新
1,500円/月
※1年分一括のお支払いとなります
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事が読み放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年7,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 塩野七生・藤原正彦…「名物連載」も一気に読める
- 電子版オリジナル記事が読める
source : ノンフィクション出版 2025年の論点

