日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成(1899〜1972)。名作『眠れる美女』は何を描いたのか? 愛読する女性作家・鈴木涼美氏が解き明かす。
25年間、買う男をよく見てきた。女子高生の下着を買いに来る男たちはマジックミラーに隔てられたあちら側からこちらをじろじろ見て、やはり真ん中にマジックミラーの取り付けられた個室に気に入った女を呼びつけ、見られていないことを確信して自慰に励み、すっきりした顔で帰って行った。店の入り口の監視カメラでその姿をすべての女子高生たちにチェックされていることも知らずに。会話も肉体的接触もないけれど、私たちが生身の女であることはそれなりに重要らしく、雨でも年始でも客足は途絶えなかった。
ポルノ事務所の男に「何もしないでいい人だから」と紹介された金持ちの老男は下肢が不自由で、車いすに乗ってホテルのロビーにやってきた。2人きりで部屋に入ると腕を器用に使ってベッドに寝そべり、女には裸になって寄り添うように指図する。こちらが動かなくてはと思っても、何もしなくて良いと答える。2度目の逢瀬でせめて楽しませなくてはと色々と話をしてみたら、機嫌を損ねて約束の時間前に追い出された。その後1度も会っていない。
私はそういう男たちの欲望を、滑稽だなと思って生きてきた。同時に私の抱く荒唐無稽な願望もあちらからすれば随分奇妙なのかもしれない、と怖くもなるし心強くもなる。だから女を侮辱する言葉より神格化する言葉を迷惑で退屈だと感じる。私だって男に自分勝手な理想を押し付けることはあるけれど、それでもマジックミラーにうっすら映るあちら側が滑稽でなさけなく、くだらない存在であることは知っている。
マジックミラーに目を凝らすまでもなく、私の生まれた昭和の時代には、馬鹿正直に男である自身の欲望や弱さを描き続けた文学者がいた。作品に立ち現れる男たちは、女の右腕を持ち帰り、憑かれたように美しい女のあとを付け回し、芸者と不倫し、画家とその弟子両方に手を出した不倫話の原稿を自分の妻に清書させる。対等とか均衡とか同意とか、そんなものとは地平が違うようにかすりもしない。それは私がマジックミラー越しに見たギョッとするほど赤裸々な男の姿と重なり合う。
初めて川端作品を読んだのは中学2年の時だ。遅刻が5回溜まると読書感想文を書かされる変な学校で、課題本として『雪国』を読まされた。何が書いてあるかよくわからなかったが、男の癖の如何によって女の胸は片方だけ大きくなることがあるのか、と思った。夢中になったのは『眠れる美女』だった。読んだ私はすでに成人しており、江口老人を知っていると思った。買う男の論理に初めて少しだけ触れた気がした。
相手が眠っているというのは売春の本質でもある。それは俗に性の商品化の現場と呼ばれる場所に身を置いているとよくわかる。男を攻撃したり拒絶したりすることは絶対になく、批判も冷笑もしない女の肉体にはオカネが支払われる。人間関係としては完全に破綻しているからこそ売る者は潤い、買う者は罪の意識を放棄して安堵する。そんな現場について記されたものは巷に溢れているが、多くが売る私たちの論理に切り込もうとしていて、買う男の欲望をつぶさに見つめることをしない。江口老人は自分のみにくさを自覚して宿へやってくる。「もう男でなくなった老人に恥ずかしい思いをさせないための、生きたおもちゃにつくられている」美女の隣で想いを巡らせる。
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