「ノートルダム」哀歌

日本人へ 第192回

塩野 七生 作家・在イタリア
ニュース 社会 国際

 ノートルダムが燃えちゃった、と思いながら、二日前の夜のテレビを見ていた。歴史的にも芸術的にもノートルダムより価値ある教会建築はフランスにもある。ただノートルダムは、フランスの、というよりパリの「ブランド」であったのだ。コロッセウムがローマの、斜塔がピサの、パラッツォ・ドュカーレ(元首官邸)がヴェネツィアの、トレードマークであるのに似て。

 大部分は石造りの基本構造は相当な程度に残ったようだから、費用と時間を惜しまなければ再建は充分に可能だ。だが、あの内部、長い歴史の間に数限りなくつけ加えられた累積がかもし出すよどんだ空気は、永遠に失われてしまったのである。

 ITを駆使すればわかるのは、「知識」だけなのだ。しかし、実際に自分の眼で見、空気を吸うから刺激になるので、この種の刺激なしには想像力につながって行かない。技術と費用と時間と人を最大限に投入して再建は成っても、それが、第二の『ノートルダムのせむし男』を産むことにはつながらないだろう。

 新らしい作品を産むのに欠かせない刺激、何かを創り出す方向に追い立てる力とはしばしば、古いからと人々から放置されていたものを眼にして始めてわきあがってくるものだ。人間とは、データを集めればわかる、という程度のヤワな存在ではない。それにしても、ノートルダム炎上の原因が修復作業チームの注意の欠如、にあるらしいのは、不幸中の幸いであった。宗教テロでもあったら、またもか、という想いで救われなかったところである。

 歴史に親しむ歳月を送っていて暗澹たる想いになるのは、歴史上では数限りなく起った文化遺産の人間による破壊である。今では美術館に置かれているが、キリスト教という一神教が生れていなかった時代に作られたというだけで鼻をそがれ、頭部を切り落とされ、川に投げこまれたのはまだよいほうだった。大砲に使う砲丸を岩石から作るのはめんどうだと、大理石の彫刻を壊わし粉にしそれを丸く固めたのを使っていたのが、キリスト教国になった四世紀末以降のローマ帝国である。これによって、どれだけの数の古代の傑作が姿を消したのか。バーミヤンの石造の大仏像を爆薬で一瞬の間に消し去ったイスラムの過激派には呆然としたが、自分たちの宗教以外はすべて邪教と断ずる狂信の徒による蛮行では、キリスト教徒とて無縁ではなかった。それでもルネサンス時代になって以後は宗教的狂信からは自由になったようなので、それだけは誉められてよいだろう。いずれにしても、狂信とホンモノの信仰のちがいはもう少し注目されてしかるべきと思う。宗教上の問題というより、信仰を共にしない人々まで加えた人類全体の平和な共存のためにも。

 歴史に親しむ日々が重なるとメランコリックになるよ、シュテファン・ツヴァイクだって最後は自殺したしね、と言ったのは、われわれ二人ともが三十代だった頃の高坂正堯だった。高坂さんがこう言ったのは、智者は歴史から学び愚者は経験から学ぶ、ということになっているのに、愚者は経験から学んでいるのに智者はいっこうに歴史から学ばない、という現実を見ているとメランコリックにならざるをえない、と思っていたからだろう。

 だが、こう言われて、私でも考えた。ツヴァイクのように有名になったわけでもないのに自殺するのは真平だ、と。それで行きついた考えが、これである。

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source : 文藝春秋 2019年6月号

genre : ニュース 社会 国際