芸術と科学の垣根を越える
ノートにはさまざまな情報がでたらめに並んでいるようだ。レオナルドの意識とペンは、機械学に関する気づき、巻き毛や水の渦、顔のスケッチ、独創的な装置、解剖図へと次々に飛んでいき、それぞれに鏡文字でメモや考察が付けられている。それでも、このでたらめな羅列を眺めているとワクワクしてくる。万能の天才が芸術と科学の垣根を越えて自由奔放に駆けまわり、それを通じて宇宙の一貫性を感じているさまが伝わってくるからだ。レオナルドは自然を観察することで、一見無関係なもののあいだに共通するパターンを見いだした。彼のノートを見ることで、われわれにも同じパターンが見えてくる。
ノートの良さとダ・ヴィンチの難点
ノートの良さは、ちょっとした思いつき、生煮えのアイデア、粗いスケッチ、論文の草稿など、これから磨いていくべき原石を仮置きできることだ。これも発想が次々と飛躍するレオナルドには都合がよかった。彼の天才的なひらめきには、地道な努力や自己規律といった歯止めがかからないという難点がある。ノートの走り書きを整理し、磨きあげて出版するという意思をなんどか表明しているが、結局実現できなかった。芸術作品を完成できないのと同じように。絵画同様、書きはじめた論文もときどき修正や改良を加えたりするが、完成品として発表するところまではいかなかった。
「テーマ・シート」を楽しむ
レオナルドのノートを楽しむ方法の1つは、特定のページに集中してみることだ。1490年頃に書かれた、30センチ×4五センチの少し大きめの1枚を見てみよう。ペドレッティはこれを「テーマ・シート」と名づけた。(下図)レオナルドが関心を持った多くのテーマが詰まっているためだ(ここからは「テーマ・シート」を見ながら読みすすめてほしい)。
紙の中央からやや左寄りに、レオナルドがよく落書きで描いた人物像がある。勇者のような高い鼻と突きでた顎を持つ、いかつい顔の老人だ。トーガをまとった姿は高貴でありながら、どこか滑稽だ。1482年に作成した、ミラノに持ってきた財産の目録にも「巨大な顎を持つ老人の頭部」のスケッチという項目がある。これから見ていくとおり、このいかつい人物のバリエーションはノートに繰り返し登場する。
老人のすぐ下には、木の幹と葉っぱのない枝が描かれている。老人のトーガ(古代ローマの外衣)に溶け込んでおり、それらが老人の大動脈と動脈を表していることがわかる。レオナルドはアナロジーを自然の一貫性を理解する手がかりと考え、さまざまな類似形を探した。その1つが、樹木、人間の血管システム、川の本流と支流などに見られる枝分かれのパターンだ。枝の太さは木の幹、大動脈、川の本流の太さとどのような関係にあるのかなど、分岐システムをつかさどる法則性をレオナルドは熱心に研究した。ノートのこのページでは、人間と植物の分岐システムのあいだに類似性があることを示唆している。
老人の背中からは円錐形の物体が出ており、そのなかに正三角形など幾何学模様が描かれている。レオナルドはこの頃、「円積問題」と呼ばれる古代の幾何学者が定式化した問題に取り組みはじめていた。コンパスと定規だけを使って、与えられた円と同じ面積を持つ正方形を作図するという問題だ。代数はおろか算術すら苦手なレオナルドだったが、幾何学の勘はすぐれており、面積を変えずにある図形を別の図形に変形させるのは得意だった。このページのあちこちには幾何学的な図形が描かれ、同じ面積の部分に斜線をかけている。
老人の背中にくっついた円錐形は丘のように見えるので、そこからつながるように山並みが描かれている。レオナルドのなかで幾何学と自然がシームレスにつながっていること、また彼がどのような空間的思考をしたかがうかがえる。
この部分の流れを右から左へ(レオナルドが描いた方向)追っていくと、明確なテーマが浮かびあがってくる。まず葉のない木があり、それが老人の体となり、円錐の幾何学模様に変わり、最後に山の風景になる。4つはもともと独立した要素として描きはじめたものだろう。だが最終的に融合し、レオナルドの芸術と科学を貫く基本テーマを体現している。自然の一体感、そこに見られるパターンの一貫性、人体と自然の類似性といったものだ。
そのすぐ下にあるものは、わかりやすい。ルドヴィーコ・スフォルツァのための騎馬像が簡単に、それでいて生き生きと描かれている。わずかな筆遣いで、絵に動きと生命力を与えている。さらに下には、重そうな機械装置が2つある。説明書きはないが、騎馬像を鋳造するための道具かもしれない。少し右側にはほとんど見えないぐらい薄く、馬の歩く姿が小さく描かれている。