話題の“経産省若手官僚レポート”にも若干の「公私混同」が
先ごろ、経済産業省の「次官・若手プロジェクト」が作成したレポートというのが話題になった。「不安な個人、立ちすくむ国家 ~モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか」というタイトルで、日本の未来についての危機感や進むべき方向については私も同意できることが多い。内容については、関西学院大学准教授の鈴木謙介さんのブログ『選択肢を理解する――経産省、若手・次官プロジェクト資料について』や、 元経産省官僚だった望月優大さんの『経産省「次官・若手ペーパー」に対する元同僚からの応答』がすばらしいレビューを行っているので、こちらをぜひ読んでほしい。
このレポートは若干炎上気味に批判もされていたようだ。その要因には、ここでも若干の「公私混同」が見られたことがあるのではないかと思う。たとえばこんなくだりがある。「みんなの人生にあてはまり、みんなに共感してもらえる『共通の目標』を政府が示すことは難しくなっている」
そもそもそんな「共通の目標」を政府が示すということ自体が変だ。もし20世紀にはそれがあったとすれば、経済成長が続いている中で社会全体の目標設定が容易だったということでしかないだろう。
レポートはこうも書いている。「社会の豊かさを追求することは重要だが、合計値としてのGDP、平均値としての1人当たりGDPを増やしても、かつてほど個人の幸せにつながらない。幸せの尺度はひとつではなく、ましてや政府の決めることでもない」
政府が決めることでもない、というのはその通りである。しかしその先で、レポートでは「意欲と能力ある個人が担い手に」と期待している。これは確かにそうなのだが、個人が担い手となるのはあくまでも「私」の選択としてであって、「公」の決めることではない。そこがレポートでは混同されている。
政府がやるべき仕事とは?
政府の役割とは何か。それは決して「意欲と能力ある個人」に社会をになってもらうことではない。
社会は、一様な人たちで構成されているのではない。一方には、「意欲と能力ある個人」と定義されるような、伸びていく人たち、伸びしろのある人たちがいる。彼らは自力でさまざまな地平を切りひらく。
従来の古い日本は、彼らの足を引っ張ることに熱を入れてしまい、彼ら「伸びていく人」たちに道を空けることができないでいた。だから次官・若手プロジェクトでは、そういう若者に道を空けろと主張している。それは「私」の領域では正しい。
しかし「伸びていく人」に道を空けるだけでは、社会は良くならない。社会には「伸びていく人」だけでなく、「落ちてしまいそうな人」もいる。新自由主義やリバタニアリズムは「伸びていく人」には有利だが、「落ちてしまいそうな人」には冷酷だ。社会包摂に著しく欠けている。
従来の日本社会のありようが「伸びていく人」にうまく適合できていないからと言って、そこをあまりに適合させてしまうと、今度は「落ちてしまいそうな人」を本当に落としてしまう。もちろん、逆に「落ちてしまいそうな人」にばかり目をやっていると、今度は「伸びていく人」の道が空かない。
だから政府のやるべき仕事は、前者を推進することだけではない。後者にだけ目を配ることだけでもない。「伸びていく人」が、伸びていく時に背中を支えてあげることも大切だし、同時に「落ちそてしまいそうな人」が落ちないように、支えてあげることも大切だ。この二つを両立させるのが、「公」の仕事なのである。
前出の元経産省望月さんは、こう書いている。「個人や企業、市民セクターなどが社会課題の解決主体でありうるということが、国が社会問題の最大・最終的な解決主体であるということの責任を免除することを帰結することはありえない」
国の役割について、もっと議論を進めていくことが今必要ではないだろうか。