海外で暮らしている女性が、日本で今でも沢山の人が外を出歩いている映像を見てとても驚いて心配し、日本の友人にメールを送ってきたそうだ。
それがなぜなのか、短い文章で説明するのは難しい。今、外を歩いている人には二種類いる、と私は思っている。家で自粛したいのに、会社が休みにならず、強い不安感に襲われながら出勤している人。もう一種類は、私とはかなり違う情報の中にいる人だ。
私たちは情報のカプセルの中にいる。インターネットでどんなリンクをクリックしたか、ニュースでどんな映像を目にし、どの「専門家」の言葉を耳にしたか、親しい友人がどんなメッセージをよこして、彼らとどんな言葉をかけあっているか。一人一人違う情報のカプセルの中、同じ世界で違う光景を見ながら生きている。
カプセルの中の情報は、日々入れ替わっていく。インターネットでは、「自粛」していない人へのバッシングを見ることもある。しかしそれでは、同じ怒りを抱えた人にしか言葉は届かないように思う。「自粛」という言葉の解釈はその人の情報によって大きく異なっていて、私とは違う「自粛」をしている人は、きっと今も、私が摂取しているのとは異なる情報をクリックしているのだと思う。
一方で、強い危機感を持っているのに、仕事を休めない人がいる。医療やライフラインに関する仕事ではないのに会社が休みにならず、生活のために出勤しなくてはいけない人が、まだ沢山いる。(という情報が、私の情報カプセルの中には入ってきている)。
補償の問題も抱えておりここには書ききれないが、私は過去の自分を思い出す。大学生のころ、コンビニエンスストアのアルバイトで、40度の熱が出ているのに働いている人は、店長に「えらい!」と褒められていた。「お腹が痛いから休ませてください」と電話をすると、「プロ意識がない」と叱られた。今は、熱がある人は仕事に来るな、検査をしろと言われるそうだ。
私は、バイトを辞めて2年経っているのに、自分は今、コンビニの仲間を裏切っているのではないか、という想いに襲われる。一人休めば、誰かが倒れる。平常時ですら、そうだった。社員さんや、コンビニ以外の会社勤めの友人には、終電で帰るのが当たり前、電車がなくなってビジネスホテルで仮眠をして出社している人が何人もいた。それは「えらい」ことだった。
近所の駅が夕方の5時に混んでいるのを見かけて、「コロナがあるのに、こんなに混んでいる」と思うと同時に、「定時で帰る時間に、こんなに駅に人がいる」とも感じてしまう。「日本としては」十分非日常な光景なのだ。私たちの「穏やかな」日常は、すでに異常だったのだ、ということに気が付かされる。私は二重の恐ろしさに襲われている。
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村田沙耶香
小説家。1979年、千葉県生まれ。玉川大学文学部卒業。2003年「授乳」が第46回群像新人文学賞優秀作となりデビュー。09年『ギンイロノウタ』で第31回野間文芸新人賞受賞。13年『しろいろの街の、その骨の体温の』で第26回三島由紀夫賞受賞。16年『コンビニ人間』で第155回芥川龍之介賞受賞。著書に『マウス』『星が吸う水』『生命式』『タダイマトビラ』『殺人出産』『消滅世界』などがある。