文春オンライン

37歳で日テレ退社 “落語小料理屋”の女将が振り返る「私が『笑点』のディレクターだったとき」

中田志保さんインタビュー #1

2020/06/21
note

100人中、2人か3人しか生き残れない世界

――ディレクターが「売れる」というのは、具体的には?

中田 総合演出になる、という意味です。ただ、総合演出になっても、いつその番組が終わるかはわからないので。結局、100人ディレクターがいても、ずっと総合演出として残れるのは2人か3人くらいじゃないですかね。ごく一部の売れっ子だけが残って、あとはいろいろな部署に散っていくんです。

――狭き門ですね。

ADVERTISEMENT

中田 超狭き門です。私は32歳でバラエティに異動したんですが、そこで3年やりながら「ああ、自分は残れないだろうな」と予感はしていました。

 

――会社を辞めようと思ったときには、「こういうお店を開こう」というイメージが既にあったんですか?

中田 そうですね。『笑点』をやっていたことで、知り合いのお店から「噺家さんを呼んで落語会をやりたい」という相談を受けたりしていて。それで徐々に自分の主催で会を開いたりもしはじめて、それがすごく楽しかったんです。だから、これを仕事にしようかなと思って、会社員時代から準備していました。

歌丸師匠からの“忘れられない言葉”

――退社することについては、『笑点』の師匠たちにも相談されたのですか?

中田 「会社を辞めてこういう店をやります」という、事後報告はしました。

――どんな反応でしたか?

中田 「そうなんだ、頑張ってね」みたいな(笑)。たぶん師匠たちは、もっとぶっ飛んだ人たちを山ほど見てきているので、私が会社を辞めることぐらいでは、全然驚かなかったんだろうなって思います。

 でも、あとで歌丸師匠のお弟子さんから聞いた話では、『笑点』の仕事を通じて私がどんどん落語にハマっていったこともあって、歌丸師匠は「あいつが会社を辞めるのは、俺のせいかもしれないな」と仰っていたようで……。師匠からは「『やきもち』に落語をやりに行かなきゃな」とも声を掛けていただいていたんです。実現する前に亡くなられたのは残念ですが……その言葉はずっと忘れられないです。

 

撮影=深野未季/文藝春秋

後編に続く

中田志保(なかだ・しほ) 

1979年、神奈川県生まれ。東京大学卒業後、2002年、制作職として日本テレビに入社。ADを経てディレクターとして様々な番組制作に携わる。主な担当番組は、「マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」「ホタルノヒカリ」「ハケンの品格」「笑点」など。2016年、日本テレビを退社。同年9月「落語・小料理 やきもち」をオープン。同店の経営者兼女将となる。

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。

37歳で日テレ退社 “落語小料理屋”の女将が振り返る「私が『笑点』のディレクターだったとき」

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー