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 一方で、被害者側の意識にも大きな問題が出てきています。

写真は2010年、いじめを認め、両親に謝罪する女児自殺についての記者会見で頭を下げる小学校関係者。同じような場面がなぜ繰り返されるのか。©共同通信社

 いじめが大きな社会問題になったのは、校内暴力問題が一段落した後の1984年~85年頃から。「葬式ごっこ」で知られる中野富士見中学校の事件は86年でした。いまの中高生の親は、ちょうどこの時代に中学生くらいで、いじめ問題に直面した経験を持っている世代なんです。まさにいじめられた被害者であったり、いじめを傍観してしまったり、自分を守るために加害者になってしまったような苦い記憶を持っていて、これが一種のトラウマになっているんです。

 いじめの被害者だった経験を持つ親は、わが子がいじめられているということを知ると、パニックになってしまうことも。かつての恐怖が甦ってきて、親の立場になれない。本当は親として事態をきちんと把握して、たとえば学校の先生と対等な立場で協力して乗り越えていくことなどを考えないといけないのですが、全く動けなくなってしまう。

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 80年代半ばはまだ、「いじめるほうも悪いけど、いじめられるほうにも原因がある」というひどい考え方が支配的でした。言うまでもないですが、いじめられるほうが悪いなんてことはありません。100パーセント、いじめる側が悪いんです。いじめられるほうにどんなに発達的な問題や、個性とか癖があったとしたって、そのことをもっていじめるなんてとんでもないことです。

 ところが、「いじめられるほうも悪いかも」なんていう誤った考えを引きずったまま親になると、わが子がいじめられていると聞いても、「うちの子にももしかしたら何か悪いところがあるんじゃないか」などと考えてしまう。こんな風に言われたら、被害者の子どもは逃げ場を失くしてしまいます。子どもの一番の味方であるべき親が、逆に子どもを責めてしまっているのです。

 また学校の先生に訴えても、もし「ふざけたけど、いじめではなかった」などと言われたら、穏便に済ませたくなるかもしれません。

©iStock.com