2020年、戦後75年の夏を迎えた。戸髙一成氏(日本海軍史研究家)・大木毅氏(現代史家)の共著『帝国軍人 公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる』(角川新書)より、戦時中の伝説、証言や史料の“真贋”を紐解いていく。

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軍楽兵が語った山本五十六伝説

大木 雑誌『歴史と人物』(中央公論社)の企画で、証言という点でもう一つ重要だったのは、「軍楽兵の見た連合艦隊作戦室」です。連合艦隊の軍楽隊の生き残り、林進元海軍上等軍楽兵曹という人を見つけ出し、書いてもらったのです。日露戦争のころには、軍楽兵は戦闘時の伝令を担当し、旗艦「三笠」の中を走り回ったという話がありますが、山本五十六の時代は少し進歩して、電話取次兵の仕事になっていたそうです。林さんは、真珠湾攻撃から五十六が戦死するまで、連合艦隊の作戦室にいた人です。だから、歴代の旗艦、「長門」、「大和」、「武蔵」に乗り組んでいたのですね。

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戸高 それは貴重な体験ですよね。一度、連合艦隊の参謀ばかりを集めて話をしたことがありますが、責任者は長官ですから、参謀はわりと物事を第三者的に眺めている。その意味で話が面白いのです。

 参謀はしたことに対してまったく責任がありません。制度上はどういうことかと思いますが、参謀は単なるアドバイザーで、極端に言うと、山本長官の参謀は参謀長の宇垣纒だけです。他の参謀は、宇垣のスタッフという扱いになる。なおかつ単なるアドバイザーのため、作戦がうまくいくと威張る人はいますが、失敗しても「俺のせいじゃない」と言えてしまう。その辺りが、作戦の立案や実行の際に他人事のような作戦を立て、結果に対しても責任を取らないことにつながります。

山本五十六

将棋を指しながら「ほう、また一隻やられたか」

大木 その点にも関わりますが、林進さんの証言で面白かったことがあります。ミッドウェイで、まず「赤城」「加賀」「蒼龍」と、三隻の空母がつぎつぎとやられ、「飛龍」もやられる。そのときに山本五十六が将棋を指しながら、「ほう、また一隻やられたか」と言ったというエピソードがあり、人口に膾炙しています。この逸話の出所を調べていくと、山本の従兵長だった近江兵治郎に突き当たる。それに対して、当時連合艦隊の参謀だった渡辺安次が、「そんなことはなかった。そもそもそんな環境ではなかった」と、戦後に語り残しています。

 ただ、渡辺は山本五十六に私淑していた人ですから、本当はそう言ったのにかばっているのかもしれないとの疑いは残りました。決着がついていませんでした。ところが、この軍楽兵の証言によると、どうも「また一隻やられたか」という発言はなかったようです。

戸高 常識的にも、司令部の中でその発言をすることはないでしょうね。あれは昼間のことですが、普通、昼間にそのような話はしません。するとしても、夕食後です。

大木 確認が取れず、あくまで回想記にもとづく推測に過ぎませんが、ガ島、ガダルカナル戦のときに、第八艦隊参謀だった神重徳が「また一隻、やられたか」と言ったようです。近江さん自身、ずっと従兵を務めていて、山本五十六嫌いというわけではないので、おそらくそういった別の話とミッドウェイの時との記憶が混ざったのではないでしょうか。