戦後の最初の5カ年計画に、タイシェトからレナ河岸のウスチ・クートまでの鉄道建設が組み入れられたが、これはシベリア鉄道とアンガラ川、さらには北方の大動脈レナ川とを結ぶことを意味している。計画による突貫工事が開始され、わたしたちはまず、つぎつぎに投入される予定の労働力のための宿舎、つづいて鉄道敷設の予備工事としての自動車道路の建設に動員されたのである。わたしたちの管理にあたるソ連側要員の多くは、独ソ戦中ドイツ軍の俘虜となり、戦後解放されたソ連軍の将校たちであった。1947年のピーク時、この地域で強制労働に従事した日本人俘虜は約5万に達したと言われる。またわたしたちと前後して、多くのソ連囚人もこの地方に送りこまれた。
この地域の建設史において果した日本人俘虜とソ連囚人の役割は決して無視できないものとわたしは思う。しかし最近、この地方の開発史がかなりくわしく記述されている『ブラーツク』と題する小著が現地で刊行されたが、日本人俘虜のこともソ連囚人のことも一言もふれられていなかったことを指摘しておこう。(以下中略)
20代半ばのロシア人軍曹との交流
さて、タイガの蚊とアブがまだ猛威をふるう少し前、つまり5月末のある晴れた日(この時期はふつう晴天がつづく)、わたしたちは収容所から2キロほどはなれた地点にある伐採場へ作業におもむいた。発情期の山鳥が高い松の梢をとびかい、白樺や落葉松のあざやかな緑が眼に心地よかった。
その日の歩哨長はトカレフというロシア人の軍曹であった。彼は赤ら顔の20代半ばであったが、聡明そうな青い眼がとくに印象的であった。トカレフは歩哨の中では珍しい読書家で、日本人だけでなく、彼の同僚の間でも人気があった。ロシア文学と言えば、岩波文庫その他日本訳のある有名なものしか知らなかったわたしが、セルゲイ・エセーニンという詩人の存在を教えられたのも彼によってであった。彼はエセーニンの詩句をいくつか暗記していて、韻をふんで口ずさんで見せた。たとえばダスビダーニャ(さようなら)という言葉ではじまるエセーニンの詩もそのひとつであった。わたしもよく知っているやさしい単語で書かれているだけに、なんとなく特別の親しみが感ぜられた。
さようなら わが友よ さようなら
愛する人よ おまえは わたしの むねのなかに
きまりきった わかれは
やがて あう日を 約束する
さようなら わが友よ にぎる手も ことばもなく
なげかないでくれ 眉くもらせないでくれ
この人生に 死ぬことは めあたらしいことではない
しかし生きることも また それ以上に
あたらしいことではない(田沢八郎訳)
エセーニンの詩は国民の士気を沮喪(そそう)させるという理由で戦中戦後にかけて出版されていなかったが、ソ連の人びとの中には彼の詩の数篇を暗記しているものが少なくなかった。それに当時のわたしは、エセーニンの辞世の詩といわれるこの詩から、絶望感というよりはむしろ生への希望を感じとっていた。悲哀のなかに喜びがひそんでいるせいか、それともあらゆるものに明るさしか見ることのできないわたし自身の若さのせいであったろうか。