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あの大河ドラマにも登場

 この湿地の島の開発を手掛けたのが羽田漁師町の鈴木弥五右衛門という名主さん。新田を開き、この一帯は“鈴木新田”と呼ばれたという。穴守稲荷は鈴木新田の一角に設けられた波風除けの小さな祠がルーツ。明治に入ると、鈴木新田は運動場や競馬場が設けられた一大行楽地になった(大河ドラマ『いだてん』で中村勘九郎演じる金栗四三が走ったストックホルム五輪予選会の舞台はこの羽田運動場)。いずれにしても、この時点では天空などとはまったく無縁の街だったのである。

“天空の街”への変化の第一歩は、1916年に設けられた日本飛行学校。1931年にはそれが昇格して東京飛行場となって、今の羽田空港へと続いている。ただ、その過程で鈴木新田、昭和に入って羽田鈴木町・羽田穴守町・羽田江戸見町と名付けられた沖合の3つの町は姿を消してしまった。戦時中の飛行場拡張と戦後の連合軍進駐、特に戦後は連合軍が飛行場を接収するとともに海老取川以東、鈴木新田一帯は強制退去。

街並みからも空港の「玄関口」であることがわかる(筆者撮影)

 こうして町は姿を消して、空港は時代とともに沖合へとさらにさらに拡大を続け、羽田空港は日本最大、世界でも有数の“天空の街”へと成長していった。

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 ちなみに、この天空橋駅ももとは羽田空港の玄関口たる駅だった。空港のターミナルビルが今の第3ターミナルと天空橋駅のちょうど中間くらいにあって、モノレールはそこに終点の羽田駅をもっていた。これが天空橋駅の祖で、京急は海老取川を渡らず手前の羽田空港駅が終点。空港が拡張してそれぞれ延伸した結果、空港連絡の役割を失って1998年に天空橋駅と名付けられたものだ。

にぎやかな空港と対照的な物寂しさ

 で、ここで鳥居に戻ろう。ひっきりなしに空港行きのクルマが行き交う道路の一角にあるこの鳥居、もとは穴守稲荷神社のもので、今の空港B滑走路あたりにあった。米軍による空港拡張で神社は移転した。そのときに鳥居も移転するはずだったが、工事関係者に怪我や病気が相次ぐ穴守さまの祟り。しばらくはそのまま空港の駐車場に残されて、1999年になってさらなる空港拡張に際して、ようやく現在の場所に移設されたのだという。

 そういういわれを理解して改めて鳥居を見ると、天空の街! などとはしゃいでばかりもいられない気がしてくる。曇り空のもと、猫が鳥居の下にやってきてこちらを見てニャアと鳴いた。かわいいはずがなんだか不気味である。

鳥居の下にやってきた猫(筆者撮影)
クルマは盛んに通るものの、物寂しい空気が漂う(筆者撮影)

 そもそも、この鳥居をはじめとする天空橋駅一帯は物寂しい。地下から地上に出たあたりでは飛行機も見えて「天空だ!」などとはしゃいだが、クルマが盛んに通るくらいで人通りも少なく、草生す空き地もあったりして、にぎやかな空港ターミナルとはまったく程遠い雰囲気である。そんな中にいわれのある鳥居が建つとなれば何をか言わんや。