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「負けた対局の悪夢が…」なぜ東大将棋部にとって団体戦「王座戦」の優勝が悲願なのか

「負けた対局の悪夢が…」なぜ東大将棋部にとって団体戦「王座戦」の優勝が悲願なのか

東大将棋部物語 #1

2020/12/22
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 山根さんは、それから多くの大会で全国区の活躍をし、女流棋士への道を歩んでいく。

 全国大会で優勝し、アマとして活躍し、将来を期待される人気女流棋士となる山根さんを将棋の道に誘った藤岡さん。将棋の輪を広げることを期待される文部科学大臣杯で、ここまでの成果を上げたのは、藤岡さんをおいて他にいないだろう。

「文部科学大臣杯が米長会長時代の改革というのは知りませんでした。学校別の3人の団体戦に変更にならなければ、山根さんを誘おうとは考えなかったでしょうね。米長先生は一番好きな棋士だったので、それを聞いて嬉しいです」

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一歩先を行く存在だった黒田四段

 もう1人、藤岡さんと深い関わりのある棋士、黒田四段の話をしよう。

 1学年上の黒田さんは、常に藤岡さんの一歩先を行く存在だった。「黒ちゃん」と呼んで慕っていたが、勝たせてはもらえない。小学生のメジャー大会、小学生名人戦でも、倉敷王将戦でも、藤岡さんは黒田さんに決勝で敗れ、愛媛県代表になれなかった。黒田さんが卒業してやっと両大会とも愛媛県代表になることができた。小学生名人戦全国準優勝など全国区の強豪だった黒田さんは、小学校6年生で奨励会に入る。藤岡さんは、「自分も」と思いつつ、両親の反対もあり迷っていた。成績優秀だった藤岡さんは、四国一と言われ、地元松山市にある名門私立中高一貫校の愛光学園を受験するべく学習塾にも通っていた。

 小6の初夏、鈴木大介九段を招いてのイベントが松山で行われ、藤岡さんは強豪小学生として駒落ちで席上対局をした。打ち上げの食事の席で藤岡さんは奨励会受験を迷っていることを鈴木九段に話した。「好きなことで食っていける。これほど幸せなことはない」と背中を押す答えが返ってきた。将棋が好きだ。やっぱりプロになりたいと思った藤岡さんは両親を説得し、その夏の奨励会試験を黒田四段と同じ畠山鎮八段門下で受験して合格する。翌月から、黒田さんと一緒に大阪の関西奨励会通いが始まった。

はるばる大阪まで来て、負けるとつらかった

 愛媛から大阪は遠い。松山から東予港まで長距離バスで行き、夜10時に出発するフェリーに乗る。大阪南港に着くのは早朝6時。そこから大阪市の関西将棋会館に向かう。黒田さんが一緒なのは心強かったものの、フェリーでは眠れなかった。帰りは新幹線で岡山に出て、そこから特急しおかぜに乗り瀬戸大橋を渡って夜遅く松山に着くこともあれば、帰りもフェリーで翌朝に着くこともあった。そしてすぐに学校に行く。

「黒田さんには、奨励会のことをいろいろ教えてもらいましたし、帰りの電車やフェリーでその日指した将棋を見てもらったりして、お世話になりました」

藤岡さん(写真右)が中1、黒田四段が中2のとき、奨励会からの帰路の新幹線ホームにて(藤岡さん提供)

 藤岡さんは奨励会ですぐに7級に降級する。はるばる大阪まで来て一生懸命指しても負けると、帰りのフェリーが辛くて仕方ない。将棋が楽しいという気持ちを忘れ、辛い思いで対局に臨み、思い切った手が指せなくなり、また負けるという悪循環だった。愛光学園中学には入学できたものの、学業も振るわなかった。