習近平の著作なんか読まないぞ
講義で逆に驚いたのは、現代の中国国内では街のあらゆる場所で目にする社会主義核心価値観(富強、民主、文明、和諧、自由、平等、公正、法治、愛国、敬業、誠信、友善の24字からなる習政権のスローガン)や、『習近平談治国理政』など習近平の関連文献をまったく読まされなかったことだ。
中国語学習者にはおなじみの党中央機関紙『人民日報』の文章も、半年間の講義のなかで1~2回、ニュース読解の際に読んだかどうかである。半年間でイデオロギーを感じさせたのは、テキスト内で台湾が「中国台湾」と中国国内の呼称で呼ばれていたことくらいだった(とはいえテキスト内で台湾の話題が出たのは1回きりだ)。
また、他に政治的な匂いを感じたシーンといえば、1957年に周恩来に面会した日本の日中友好人士についてのエピソードと、鄧小平が1978年に訪日したときのスピーチがテキストに登場したことだろうか。
もっとも、いずれも大昔の歴史事件だ。いまどき「周総理は〇〇さんに『人民群衆に奉仕する芸術をおこないなさい』とおっしゃいました」みたいな文章を読んで、中国は素晴らしい国だなあと素直にあこがれる受講生がいるとは思えない。L老師の講義は、実質的にはイデオロギー色はほとんどない内容だった。
結果にコミットする“孔子ブートキャンプ”
ところで、私の中国語力はプロとしてそれだけでメシが食えるほどの水準ではない(たとえば流暢な同時通訳などは不可能だ)。ただ、ノンネイティブの日本国内在住者としてなら、決してスジが悪いともいえない。
筋トレに置き換えればベンチプレス120キロ、マラソンならサブ3.5を切るぐらいのレベルだろうか。全国代表選手に選ばれるにはほど遠いが、民間人の特技としてなら悪くない水準である。
さて、そんな私にとってL老師の講義は、毎回みっちりとした予復習を必要とする程度には難しいものの、難解すぎてついていけないほどではなかった。つまり、自分が耐えられるギリギリの水準で絶妙な負荷をかけてくれているのだ。授業後には毎回、結果にコミットしている確かな快感があった。
すくなくともM大学孔子学院の通訳実践講座は、L老師の人徳と講師技術ゆえか「プロパガンダ機関」でも「スパイ養成機関」でもなかった。その実態は、極めてハイレベルな中国語教育をニンテンドーSwitch1台分くらいの価格で半年間も提供してくれる、ストイックな孔子ブートキャンプだったのである。