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「幹事長逮捕となれば、政権存続は危うい」

 4月17日付読売夕刊は「佐藤自由党幹事長 逮捕請求決定的 最高検首脳会議で検討」と1面トップで伝えた。

 4月18日付朝日朝刊は、佐藤幹事長が「もし逮捕請求が出されることが明らかになれば、その前に幹事長を辞任する」と自由党幹部に述べたと報じた。「幹事長逮捕となれば、政権存続は危うい。しかも、自衛隊設置法、防衛庁設置法という重要法案を抱え、首相・吉田茂、副首相・緒方竹虎らは対策に苦慮した」と「戦後政治裁判史録」は書いている。

「注目の検察首脳会議 佐藤池田問題に最終結論 密議、数時間に及ぶ」。こう見出しを立てたのは4月19日付朝日夕刊。月曜日のこの日午前、佐藤幹事長逮捕などを協議する2回目の検察首脳会議が検事総長室で始まった。出席者は佐藤検事総長、河井信太郎主任検事のほか、岸本義廣・最高検次長検事、馬場義続・東京地検検事正や法務事務次官、法務省刑事局長ら。

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苦悩する検察首脳(右端が河井信太郎検事(

「捜査」によれば、午前9時40分ごろに登庁した佐藤検事総長を、いつもは10時ごろでないと登庁しない犬養法相がこの日は来ていて大臣室に呼んだ。「逮捕しないで何とかならないものか」と法相は言い出し、検事総長は「いまさら逮捕しないわけにはいかないが、お気持ちは伝えてもう一度検討してみます」と答えたという。

“青年将校に父を殺された男”が主役に

 造船疑獄の一方の主役である犬養法相は「五・一五事件」(1932年)で海軍青年将校に射殺された犬養毅・首相の長男。東京帝大(現東大)哲学科中退。「雑誌『白樺』に作品を発表して注目を浴び、のち“新感覚派”に接近。1929年、中国視察ののち創作を断ち、父の立憲政友会総裁時代に政界に進出。1930年、東京(1936年以降岡山)より代議士(以後当選11回)」(「日本近現代史辞典」)。

 戦後、公職追放を経て1952年から法相を務めていたが「白樺大臣」と呼ばれた。周囲の見る目はあくまで「文人政治家」だったようだ。三好徹「評伝緒方竹虎」に収録された緒方副総理の日記には、疑獄が発覚した1954年1月28日の項に「犬養法相を検事総長に向けるべきのところ、行方不明(演舞場にて踊見物していたる由)」とある。

「白樺大臣」に同情的な出身地の山陽新聞

 検察首脳会議では第三者収賄が成り立つのか、公判維持は可能かなどをめぐって論議。主に東京地検が逮捕の必要性を主張。法務省側が慎重論を述べたとされる。激論約8時間。結論は出ず、結論は翌日に持ち越された。この日、犬養法相は会議が開かれている間、大磯から上京した吉田首相と緒方副総理と会談。会議終了後、再び緒方副総理に面会している。兼務していた国警(国家地方警察)担当を外され、叱咤激励されたとされる。

 当時の緒方副総理について、その日記から「緒方の心がさすがに不安定だった」と書くのは、「評伝緒方竹虎」だ。同書によれば、犬養法相は前日の18日、ひそかに緒方副総理を訪ねて辞表を出していた。指揮権発動という発想が浮上。「自分にはそれができないから辞めさせてほしい」ということだったという。一方、佐藤は――。