根強いのは、戦前からの思想検事と経済検事の対立が背景にあるという見方だ。それぞれの代表格が疑獄当時の岸本義廣・最高検次長検事と馬場義続・東京地検検事正。発動の“張本人”犬養・元法相が「文藝春秋」1960年5月号の「“指揮権発動”を書かざるの記」で述べたことが輪をかけた。
当時検察庁に対して大きい勢力を持っていた某政治家が、法務大臣たる私や検事総長たる佐藤藤佐氏を差し置いて庁内のある有力者を吉田首相の身内の1人に近づかせ、「自分の推薦する者を検事総長に任命すれば指揮権発動ぐらいの事は必ず断行させて見せる」と豪語して、ひそかに首相の周囲に指揮権発動の可能性なるものを入れ知恵する一方、検察庁内のある上級幹部にも働きかけて、その秘密会議の席上、「断固、佐藤栄作を起訴すべし」という、全く正反対の強硬論を吐かせたのである。
これに対し、岸本は「庁内の有力者とは自分のことを指している」として名誉棄損で告訴したが、犬養・元法相の死去でうやむやに。岸本は退官後、衆院議員になったが、急死。
1971年に出版された「岸本義廣追想録」では、佐藤・元検事総長が「不慮の指揮権発動は何人の知恵によるものであったか」「不幸にして岸本君の名前も出されたことがあった」「最近、私は偶然の機会に、本当の知恵者は同君ではなく他にあったということを耳にして、唖然として驚き、かつ憤慨したことであった」と「岸本説」を否定。同書の座談会でも同様の意見が相次ぎ、最後に司会が「指揮権発動については、岸本君が裏工作の張本人ではないということが皆さんのお話でよく分かったと思います」と締めている。岸本以外にも“犯人”と名指しする説はいくつもあるが、確定的なものはない。
事件の構造的な欠陥と検察側の“正面突破”
それより興味深いのは、渡邉文幸「指揮権発動」が示した見解だ。第三者収賄罪は元々成立が難しいという意見があっただけでなく、調書が非常に粗雑で抜け穴だらけ。だから佐藤を逮捕して供述を得なければならなかった。「だが、指揮権が発動されたことで、結果的に事件の構造的な欠陥、すなわち『法律的性格』を覆い隠すことができた」という。
「岸本義廣追想録」の座談会でも、指揮権発動を「法律に書いてあることですから、誰でも知っているのは当然だと思っていた」としたうえで、同様の意見が相次いでいる。「非常に捜査に無理がある。しかも、狙いはいわゆる自由党の政治の腐敗を衝こうという最初からの狙い」「贈収賄罪で起訴するということはかなり難しかったのではないか」「指揮権発動が検察庁を救ったんじゃないかなあ、という気もする」……。
確かに分からないのは、検察側の“正面突破”の強硬姿勢だ。捜査終了宣言翌日の7月31日付毎日社説はこう指摘した。「これほどの大事件に手をつけた首脳部が、捜査の時期選定を完全に誤った過失も大きい。国会会期中に国会議員を逮捕しようとすれば、議院の許諾を要することは、検察側としてかねて知っているところである」「だから政党内閣時代のこの種疑獄事件の捜査は、いつも国会閉会中の時期をねらって手をつけている」「それを無視して、すでに通常国会が招集されているときに乗り出したのは、皮肉をまじえるとつぶれることをあらかじめ知っていて、捜査に着手したということにもなろう」。至極正論のように思える。
「文藝春秋」2006年3月号「心の貌 昭和事件史発掘(11)造船疑獄 『指揮権発動』が残したもの」の座談会で元東京地検特捜部検事の堀田力氏は「検察という権力と、政治という権力の2つがあって、検察という一方の権力が政治権力の中のどこまで食い込めるか、その限界点が争われたのが造船疑獄だったと言ってもいい」「私は喧嘩両成敗という形でうまく収まったと思っています」と発言。
戦前からの政治権力は金や女におおらかで、国民もそれを容認していたところがあるが、それが戦後、次第に許されなくなり、現在は政治家は身ぎれいでなければいけなくなったと言う。「その契機の1つとして造船疑獄があると思います」と語る堀田に、座談会に参加していた柳田邦男氏も「国民の価値観の変わり目だったということでしょう」と応じている。