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法相の辞職 続々釈放される会社幹部たち

 犬養法相はこの日、辞表を提出。翌4月22日社説は「常軌を逸した指揮権乱用」(毎日)、「遺憾至極な指揮権の発動」(読売)と批判した。4月23日付朝日朝刊「声」欄には、「自由労働者」を名乗る男性が「政府が自己の権力を基盤としてすべての法律の精神をふみにじろうとする暴力行為」との意見を寄せた。

 その後、逮捕されていた会社幹部らは次々釈放された。後任の加藤鐐五郎法相は「犬養指示は国会閉会と同時に消滅する」と表明。だが、東京地検は6月16日、佐藤幹事長を政治資金規正法違反で起訴するとともに、佐藤検事総長が「逮捕の時期を失し、起訴に足る証拠の収集が望めない状態になった」とする異例の談話を発表した。

 そして7月30日、佐藤検事総長は、205日間の捜査で71人を逮捕、34人を起訴したなど、造船疑獄の最終結論を発表。捜査終結を宣言した。同日付毎日夕刊は「政、官、業界人8200余名を調べあげた歴史的な大疑獄も結局『指揮権』が最後まで決定的な影響をおよぼし、幾多の疑惑をのこしたまま事件の全容はヤミに葬り去られてしまった」と嘆いた。

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「逮捕の時期逸す」検事総長が異例の談話(朝日)

「君が選ぶ道は2つ。指揮権発動をして大臣を辞めるか…」

 熊本日日新聞2004年5月8日付朝刊の連載企画「わたしを語る」「戦後政治の語り部」で松野頼三・元衆院議員(元農相)は、吉田茂の相談役で「緒方日記」にも登場する父・松野鶴平から聞いた造船疑獄当時の思い出を語っている。

 公職追放中だった鶴平は夜中に目黒にあった首相公邸を訪ね、吉田と語り合っていたが、指揮権発動をすることを決めて犬養法相を呼んだ。「犬養は青ざめて『それはできない』と断った。そこで吉田さんと2人で『君が選ぶ道は2つ。指揮権発動をして大臣を辞めるか、しないで辞めるか。しないで辞めるなら、お父さんの犬養木堂(毅)の名を汚すぞ』と迫った。2、3日後、犬養は『やります』と言ってきた」。ありそうな話だ。しかし本当は、指揮権発動を断って大臣を辞めるのが、父の名を汚さないやり方だったのではないか。

疑獄の火は消えた……(朝日)

“疑獄は流言ヒゴ”

 同年8月10日、自由党全国支部長会議でのあいさつの中で、吉田首相は造船疑獄の捜査を批判し、「新聞はこのことについて面白半分に書いているが、かかる流言ヒゴ(飛語)には耳をかさず政府を信じてもらいたい」(同日付朝日夕刊)と述べた。

 同日付朝日夕刊は「“疑獄は流言ヒゴ”」の見出しで報道。新聞や野党などから激しい批判が沸き上がり、衆院決算委員会は同年9月以降、佐藤検事総長や河井検事らを証人喚問。検事総長は「流言飛語などという批判は検察を誹謗するもの」と反論した。

 この問題は吉田首相や犬養・前法相の証人喚問まで話が進み、首相が繰り返し拒否するなどして尾を引いた。疑獄の裁判では、佐藤幹事長は1956年の国連加盟恩赦で免訴に。特別背任が全て無罪になるなど、国会議員1人を含む7人が無罪となり、有罪となったのは国会議員3人を含む16人だった。

造船疑獄の捜査終結宣言(朝日)

「検察の歴史の汚点」 仕掛けたのは誰?

「検察の歴史の汚点」。前代未聞の“奇手”とされた指揮権発動に対する大勢の評価はいまもこうだろう。では、それを誰が仕掛けたのか。