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 二本の太刀を持つことで強くなれるのか、両刃の剣となってしまうのか。大谷の思いとは裏腹に、世の中は二刀流という言葉の持つ、強い響きに引きつけられた。

 しかし、実際にプロ野球の世界で同一シーズンに投手、野手の両方で公式戦に出場した選手はほとんどいない。稀にいるのは本職があって、一時的にリリーフとして登板したり、代打として打席に立ったりするケース。投手として先発し、勝利投手となった直後に今度は野手として先発し、ホームランを放つというような二刀流は藤村富美男、川上哲治など、戦中、戦後の混乱期、選手の数が圧倒的に不足していた時代まで遡らないと見当たらない。

子どもの頃から抜きん出ていた才能

 その後の球史を辿れば、金田正一、江夏豊、堀内恒夫、平松政次、桑田真澄など、バッティングのいいピッチャーはいた。それでも、子どもの頃からのエースで4番を貫いたプロ野球選手は一人もいない。だから、そんなことが叶うはずがないとすぐに思ってしまう。ところが大谷はこうも言った。

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「できないと決めつけるのは、自分的には嫌でした。ピッチャーができない、バッターができないと考えるのも本当は嫌だった。160kmを目標にしたときも、できないと思ったら終わりだと思って、3年間、やってきました。最後に160kmを投げられたのは自信になっていると思います」

 高校時代の大谷は、花巻東のピッチャーとして160kmのストレートを投げ、バッターとして高校通算56本のホームランを放った。その才能は子どもの頃から抜きん出ていた。誰よりも速いボールを投げ、誰よりも遠くへ打球を飛ばしていた。

©文藝春秋

15スイング中11本のホームラン

 大谷が野球を始めたのは、小学2年のとき。社会人野球でもプレーしていた父の徹さんに連れられて、リトルリーグの門を叩いた。当時、岩手県の水沢リトルリーグで事務局長を務めていた浅利昭治さんがこう話す。

「翔平はヒョロッとした子で、背もみんなより少し大きいくらいでした。小学校に軟式のスポーツ少年団があるのに、一人で硬式のリトルリーグに来るなんて勇気ある子だなと思いました。足が速くて肩が強くて、マイペースで無口で、そのくせわんぱくでね。私たち、春に福島の相馬で合宿してたんですけど、あるとき、一人、海に落ちたって報告があって、私、すぐに翔平かって聞きました。そしたら、そうですって(苦笑)。牛若丸みたいにポンポンとテトラポッドを飛んでいるうちに、滑って海へジャッボーンと落ちたらしい。危ないから行くなって言っても行くんですよ、あの子は……」