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 息子を水沢リトルに入れた大谷の父、徹さんは、ほどなくチームの監督となった。徹さんが振り返る。

「監督として自分の子どもと接するのは難しい面もありましたけど、野球をするときには監督だから言葉遣いを考えなさいということは徹底させました。その分、家に帰ってすぐ一緒に風呂に入るんです。そこではお父さんとして翔平と野球の話をする。こっちの話を聞いているだけでしたけど、今、考えれば大事な時間だったのかもしれません。中学2年くらいまで風呂には一緒に入ってましたね。こんな話、翔平は嫌がるかもしれませんが(笑)」

何か野球につながるようなことがないかと探す日々

 じつは大谷に、今の自分を作る上でもっとも大事だった時期はいつだと思うか訊ねた。すると、すぐに「小学校の頃です」という答えが返ってきた。

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「リトルのとき、初めて全国大会へ出場できました。その目標のために練習をやってきて、それを達成したときは、今までで一番と言っていいくらい嬉しかったんです。5年生のときには準優勝、6年生のときはベスト4だったんですけど、あのときの負けは今でも思い出します。すごく悔しい思いをして、次は優勝してやろうという気持ちで頑張れましたし、そういう悔しい経験がないとそういう思いもできないんだということを知ることができました。最後の1年は本当に必死で練習しましたし、家の中ではずっとボールとバットを持ってました。野球のことがちょっと頭にあるだけで全然違うと思ったので、常にボールを上に投げてみたり、バットを握ってみたり、何か野球につながるようなことがないかと探していたんです」 

県大会のホームランダービーでダントツ

 リトルリーグの試合に出られるのは12歳まで。誕生日によっては中学1年まで試合に出られる子どもと、そうでない子どもに分かれるのだが、大谷は中学1年まで試合に出ることができた。水沢リトルの浅利さんが続ける。

©文藝春秋

「6年生の頃には岩手県で翔平のボールを打てる子は一人もいませんでした。バッターとしても、通算ホームラン数は35本です。県大会のホームランダービーでも、翔平は6年生なのに各チームで4番を打ってる中学1年の選手たちの中でダントツでした。みんな力むからラインドライブの打球になって、なかなかホームランを打てないんです。最高で15スイング中、3本だったかな。でも翔平は、11本。フワッと振って、バットにボールを乗せて軽々と運ぶから、打球は速いし、いい角度で上がれば飛びます。試合でも翔平がバッターボックスに立つと、外野手には当然、下がれ下がれと言うんですけど、そのうち、内野手にまで下がれ下がれと言うようになりました。翔平の打球は強すぎて危ないんですよ。だから翔平には、ピッチャーライナーだけは打つなと言ってました」