「名護はいいけど地元は嫌」
拓哉 1人で(バイクで)走って、こっち(中南部)で友だち欲しかった。目立ってると、先輩に因縁つけられるから。俺の年代で、俺が1番目立ってた。無免でバイク乗ってたし......。地元でうるさいとき、(全て)自分のせいにされた。
――バイクはいつまで(乗るの)?
拓哉 ずっとでしょ。死ぬまで。今は乗りたい。暴走族のバイク乗ってたら、先輩(五歳ほど上)がけちつけてくる。ケンカしたくないのに。痛いだけさ。この前、コンビニでたまたま(先輩たちに)会って、「ちょっとこっち来い」って言われて、やばいと思って行くふりして逃げた(笑)。地元(の人)は心が狭い。考え方が幼い、幼稚。ずっと根にもつし......。だから、ここ(浦添)で働いているわけよ。北部、楽しくない、名護はいいけど地元は嫌。同じバイクでも評価が違う。(バイクにデザインされた)二本線見て、地元では「だっさー」ってなるのに、名護では「(かっこ)いいやんにー」ってなる。名護の人はやさしいよ。
彼は、北部の中心都市である名護で、自分のバイクを評価してくれる同世代と出会った。これをきっかけに、バイクを楽しむ仲間を中南部にも広げていった。彼にとって、地元のヤンキーの先輩らとつき合うよりも、中南部で出会った同世代の仲間たちと、毎晩行われるツーリングに参加する方が魅力的だった。
出身中学ごとに暴走族がつくられ、そのつながりはそれぞれ強かったものの、地元意識の強い暴走族が互いに抗争を繰り返すような、排他的なものではなかった。前に触れたように当時のゴーパチは、沖縄の暴走族の若者たちが毎晩集う場所になっていた。ともに暴走を楽しみ、暴走族デビュー前の10代の少年たちが小型バイクで彼らを追走する。各所から集まってきたギャラリーがその場を盛り上げた。
ゴーパチには、拓哉のように1人か少人数で見物する若者がたくさんいた。彼ら彼女らは、見物するだけでなく、自ら小型バイクに乗ってバイクの群れに合流し、深夜のゴーパチを楽しんだ。そして彼のように、そこに集った同世代に声をかけて交友関係を築く若者もいた。当時のゴーパチは、沖縄中の非行少年・少女にとって魅力的な場所になっていた。年齢の上下がものをいう世代間秩序がしかれた地元社会とは対照的に、ゴーパチでは地元や世代間の秩序を超えたつながりが作り上げられていた。ゴーパチは、孤立する若者たちのたまり場でもあった。